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川柳的逍遥 人の世の一家言
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無常から朧の宵へ皮膚呼吸  森田律子





              平安京の図




「源氏物語」の舞台となるのは、およそ千年前の「平安京」である。
桓武天皇により延暦13年(794)に開かれた平安京は、唐都・長安
を手本に、縦横にはしる道路で碁盤のように区切られていた。
北側中央には帝の住まい(内裏)や政治の中心がおかれた大内裏があり、
南北にはしる朱雀大路をメインストリートに、東側の左京、西側の右京
に分れている。
なかでも左京の北側は、多くの貴人たちの邸がある高級住宅街だった。




開けたら襖開けても襖また襖  田村ひろ子




式部ードラマの舞台






のお妃の位には、中宮→女御→更衣と順位があった。
のちに中宮より上に「皇后」が位置することになる。
女房は、妃ではなく、独立の局を与えられた後宮女官のこと。




「後宮シンデレラ物語」
当時の帝は、第一のお后である中宮のほかに何人もの女性を妃に迎え、
内裏の中の後宮という所に住まわせていた。
<女御とか更衣というのは、お妃の身分を表す言葉>で、父親の身分に
よって決められていた。
当時の特権階級である公卿のなかでも、上位の摂関や大臣の娘が女御に、
次の位の更衣大納言以下の娘がなった。
女御でなければ、正室の中宮になることはない。
主人公・光源氏の母・桐壺更衣は、大納言の娘で更衣であるために、
どれほど帝に愛されても、中宮になれない。
いわば悲劇のシンデレラだった




飛び抜けてべっぴん揃いのミカンです  賀部 博





     帝が普段日々を送る平安京内裏の図

女性たちは、帝のお召しがあると廊下伝いに夜の御殿へわたる。
桐壺更衣は、遠く淑景舎(しげいしゃ)から、他の妃の殿舎の廊下を通
っていかなければならなかった。







「霧の花咲く庭に」
が日常生活する建物が清涼殿
寝室にあたる夜の御殿は、その北部分にあり、背後には七殿五舎が並ぶ。
後宮の殿舎は、それぞれ壺(中庭)に植えられた庭木にちなんで「桐壺」
「藤壺」などと呼ばれ、そこに住むお妃は、「桐壺更衣」「藤壺女御」
呼びならわせている。殿舎の位置は、おもにお妃の身分によって決まり、
桐壺更衣に与えられたのは清涼殿から一番遠い淑景舎だった。




雲つき抜けてお久振りなんてね  酒井かがり





平安時代の官職制度の中核である太政官の組織図

寝殿中央に帝、右に東宮そして簀子には公卿たちの姿が描かれる




「恋愛特権階級」
「源氏物語」に登場する貴族たちは、当時、その地位を律令という法律
で厳密に定められていた。具体的には、一位から初位(そい)まで30
もあった役人の位階のうち、五位までがいわゆる貴族であり、その人数
は多くても150程だった。
そのうちの三位以上と四位の参議が「公卿」と呼ばれ、帝の住む清涼殿
に上がることができた。
それ以外で、特別に許されて清涼殿に上がることのできる者は「殿上人」
と呼ばれた。




滑り込んだのは四つ葉のクローバー  市井美春






女性ゆえに母ゆえに弘徽殿女御の憎しみは…





「嫉妬と嫌がらせの渦の中で」
桐壺更衣が帝に召されて清涼殿へ。
その夕に上がるとき、早朝3時ごろに下がるとき、やっかみ・いじめが
強烈で、他の後宮の女房たちから通り道の内橋や渡殿などのあちこちに、
不浄のものを撒き散らす意地悪な仕打ちを受ける。
桐壺更衣のお供の女房たちの裾は、汚れて、汚いやら臭いやら…。
そのままでは、清涼殿には上がれないようにしたのである。




触ってはダメ嗅ぐのはもっとダメ  きゅういち





     普賢菩薩像




「平安女性に人気だった法華経」
「法華経」が女性に愛されたのは、経典に女人成仏が示されていたから
である。それまでの仏教では。女性の成仏は難しいとされていた。
源氏物語でも、女性の登場人物と法華経は色濃く結びついている。
当時の法華経絵画には、普賢菩薩、羅刹女(るさな)、鬼子母など女性
に馴染み深い尊像が多く描かれた。
女性信者の人気を狙ったのだろうか、仏画というより、絵巻物のように
麗しく表され、女性好みだったという。




平等に春は誰にもやってくる  奥山節子





       継嗣への流れ




「帝の子なら男の子 貴族の子なら女の子」
天皇に入内させた娘の母親には、娘の男子出産が最大の関心事。
いずれ皇子が即位すれば、娘の一族も前途洋々というわけである。
逆に貴族の娘たちには、女の子を産むことが望まれた。
もし娘なら入内させる可能性があるからだ。
また、娘の実家が迎え入れる「婿取婚」が当時の結婚の形態。娘が権力
のある男性を婿に取れば、親族の昇進も期待できたから。




太陽をポンと割ったら卵焼き  石川憲政






   百人一首像讃抄 賢子 (菱川師宣画)

紫式部の娘・賢子は大弐三位(だいにのさんみ)と呼ばれることも。
「有馬山猪名の笠原かぜ吹けばいでそよ人を忘れやはする」
の歌で小倉百人一首にも登場している。



「帝の乳母は女性の憧れ」
育てた子が天皇に即位すると、乳母には、典侍(ないしのすけ)という
女官の役職が与えられ、多くは三位の位を授与される。
三位は天皇の后であっても、なかなか授与されない位なのだ。
育ての親なので天皇との結びつきは強く、親類縁者の昇進を天皇に口添
えしてもらったり、遺産をもらうこともあった。
天皇の乳母として成功したのが、紫式部の娘・賢子(かたいこ)で、
育てた子が即位して後冷泉天皇となり、三位を授与され典侍の地位に
就いている。
天皇の後ろ盾で夫は、受領(地方長官)として富を蓄え、賢子は豊かな
人生を送った。




いい知らせ春のソナタにのってくる  山本昌乃





   百人一首画帖 和泉式部


恋の噂が絶えなかった和泉式部も宮仕えの女房。
橘の道貞とけっこんしたものの為尊(ためたか)親王との恋が芽生えて
離婚。その後宮仕えに出て、藤原道長の家司・藤原保昌と再婚するなど
華やかな恋愛遍歴を持つ。
あらざらむこの世のほかの思ひ出に 今ひとたびの逢うこともがな




「宮仕えは花形職業」
平安女性にとって、宮仕えは憧れの職業。紫式部清少納言のように、
専門知識を生かして見聞を広めたい、という気持ちから、宮仕えした女
性もいたが、多くの女性は華やかな社交界に憧れ、結婚相手を見つける
ために宮廷に入ったという者のほうが多い。
しかし、雇用条件は不安定で、仕えていた相手が没落すれば、失職して
しまう。そのため女房たちの間では情報交換が盛んで、よりよい職場を
求めて、日々転職活動にも勤しんでいたという。




太陽を総身に浴びて深呼吸  曾根田夢





         源氏物語行幸
「行幸の巻」を描いた貝合わせ

京都御所にある年中行事障子
宮廷の年中行事は、正月の四方拝にはじまり、鎮花祭、新嘗祭、大祓など
が知られる。




「一年中、行事で帝は超多忙」
の仕事は、おもに年中行事を行うこと。
清涼殿の殿上の間には、予定を記した年中行事障子があり、それに従っ
て行事を行うのが宮廷の当時の政だった。
一年中、毎日のようにさまざまな行事があって、帝には、帝には内裏の
外に出る時間などほとんどない。
年に数回、外に出て、平安京の周辺の寺社へ参るなど「行幸」の機会も
あるにはあったが、多くはなく行動も限られた。




白い息続いてぐっと飲む酸素  野口 裕





   宇宙観を体系的に表した曼荼羅

加持は密教の渡来とともに生まれた。
密教は大日如来を本仏とし、仏や菩薩をその化身と考えている。




「平安遷都は怨霊封じ」
怨霊から逃れる方法には加持祈祷などがあるが、最もスケールの大きい
方法が、遷都。怨霊の巣くう古い都を脱出し、新しい土地に都を作って
祟りから逃れるのである。
桓武天皇は、70年以上続いた平城京を捨て京の南、長岡京に遷都する
ものの、途中で造営使長官が暗殺され、工事は停滞。
あげくに平安京へと移るが、それでもなお天皇の不安は収まらない。
そこで天皇は、怨霊を封じ込めるため、鬼門である東北の地に延暦寺や
鞍馬寺を造営した。




抄録に載せぬ火葬場行きの過去  藤井智史





           三郎岩

背後に見えるのが、後鳥羽上皇の配流地、隠岐島、上皇の敗北は、
乳母・郷の局に甘やかされ、先を見誤ったゆえの悲劇だった。




「産みの親より、育ての親?」
一般に貴族の子供は、乳母に育てられる。
乳母は実母よりも長く子供と接するので、互いに愛着が強く、生涯にわた
る親密な関係は親子以上に。
例えば、鎌倉時代、後鳥羽上皇の乳母、卿の局(藤原兼子)は、上皇好み
の愛人や美少年を世話して、権力をほしいままにした。
ついには、朝廷の人事さえ左右するようになり、上皇が鎌倉幕府相手の戦・
承久の乱に敗れて、隠岐島に流された後も、鎌倉方と直談判して後継将軍に
上皇の子を推薦。東の尼将軍・北条政子とその女傑ぶりを競ったのは有名。




ありがたいけれど強力母性愛  下谷憲子

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