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川柳的逍遥 人の世の一家言
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風見鶏風のなさけは当てにせぬ  森中惠美子

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「摂関家との提携」

政治的な発言力を高めるために、

多数派工作が有効なのは、

いつの世も変わらない。

そのために清盛が用いたのが「婚姻政策」だ。

有力貴族に多くの娘を嫁がせて、

平家のシンパを増やし、

政界における平家のプレゼンスを高めようと努力した。

高倉天皇の中宮となり安徳天皇を生んだ徳子は、

その代表だ。

≪ほかにも後年に従一位に進む花山院兼雅

  
後鳥羽天皇の外祖父となる藤原信隆

  
高倉天皇の寵姫でもあった小督(おごう)と浮名を流す藤原隆房

   などの有力貴族に娘を嫁がせた≫


一言で鬼千匹の牙を抜く  笠嶋恵美子

清盛の娘のうち徳子に次いで、

重責を担ったのが盛子だろう。

長寛2年(1164)

清盛は盛子と関白・藤原基実を結婚させ、

摂関家と婚姻関係を結ぶことに成功する。

盛子は正室として迎えられたが、

これが明らかな政略結婚だったことは、

すでに基通という息子までいる

22歳の基実に対して、わずか9歳の盛子が、

あてがわれたことからもわかる。

罪ひとつ軽い形にぶら下げる  吉川哲矢

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   藤原基実

基実が平家との結婚を受け入れたのは、

「平家の武力と財力に期待をかけたからだ」

と思われるが、

清盛に対する親近感も、あったのではないだろうか。

摂関家は、「保元の乱」により、

源為義など仕えていた武士を多く失ったことで、

荘園などの管理にあたる武士が不足し、

各地で混乱が生じていた。

そのため、基実は武門貴族である

藤原信頼に目をつけ、その妹と婚姻し、

彼の持つ武力に頼った。

しかし、今度は「平治の乱」で信頼を失ってしまった。

≪そしと、平治の乱の「六波羅行幸」のおり、

   信頼の妹を妻にもつ基実を、

   快く迎えてくれた清盛の度量の大きさに感銘を受け、

   頼むに足る人物と見込んでいたことも、提携の条件になった≫


竹薮で見た銀色の脚の人  井上一筒

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     藤原基房

清盛にとっても、「摂関家との提携」は、

政治的な発言力を高める、絶好のチャンスだったが、

それ以上に魅力だったのは、

摂関家が全国に所有する、膨大な荘園だった。

清盛は、配下の家人を預所に任命したり、

在地領主を下司に任じたりして、在地支配にあたらせ、

摂関家・領荘園からの中間搾取をねらったのである。

≪ところがその目論見は、

   その2年後に基実が24歳で急死したことで頓挫してしまう≫


金箔を纏えば僕もほとけさま 新家完司

こうした下りにおいて、その後、後白河上皇は、

二条天皇の親政を支えた摂関家を弱体化するため、

「摂関家領は清盛が管理せよ」

という院宣を下した。

いわば、盛子の摂関家領相続は、

政府の公認のもとに行なわれた。

清盛が見た夢の話が、貴族の日記に残る。

砂のない砂場に時を遊ばせる  山本早苗

「あるとき、春日大明神の使者が清盛のもとへ、

宝の山をもってきて、しばらく預かってくれるように命じた。

宝の山には藤の花が盛んに咲いて,

覆っていたというものだ。

その後、基実が亡くなり、

財産を清盛に管理させよという院宣が下された。


筋からいえば辞退すべきであるが、

『神のおはからいである以上、

断るのは恐れ多いのでしばらく預かることにした』
と、

清盛自身が語ったという」


日記の主が基房の弟・九条兼実であるのが面白い。

≪この夢に対し、批判めいたことは一切記されていない≫

斜めに歩いて衝撃を避ける  本多洋子

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