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川柳的逍遥 人の世の一家言
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字引きから 《寝耳に水》 は削除する  岩根彰子

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乱後、後白河上皇二条天皇が協調する

政治体制となったが、

院政を続けようとする後白河上皇と、

親政を目指す二条天皇の間には、火種が燻っていた。

縦糸に水 横糸に水蒸気  井上一筒

そんな中清盛は、双方の良好な関係が維持されるよう、

気を配りつつ、両者に奉仕していく。

清盛としては、時の天皇である二条天皇を重んじる一方、

天皇家の家長として二条天皇を後見する後白河上皇も

尊重すべきと考えた。

「よくよく謹みて、いみじくはからいて、

   アナタコナタ しけるにこそ」


(用心し、よく配慮して、後白河と二条の双方に心を配っている)

                                                            『愚管抄』

がまんがまん丸虫のようになる  筒井祥文

権力者2人の間でバランスを保つのは、

「清盛の優れた政治力の表われ」 といえるだろう。

そんな清盛を

「貴族のようで、武士にあるまじき者」

と評する者もときにはいるが、、

清盛は、決して武士を捨てたわけではなく、

むしろ武士でありながら、

朝廷政治に加わることのできた存在なのだ。

清盛は、単に諸方面に気を配るだけでなく、

明確な政治スタンスを持っていた。

自転公転レモン一顆を遊ばせる  前中知栄

清盛は、保元・平治の乱のいずれも、

終始一貫して天皇を支持している。

いわゆる「時の天皇」に忠実でいるということ。

そのため、この時期の清盛は、

どちらかといえば、二条天皇寄りにも見え、

二条天皇も清盛の力を背景として、

少しずつ政治権限を強めていった。

キャベツ色して蝶々になりすます  山本早苗

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    二条帝

また二条天皇との関係で見過ごせないのは、

二条天皇の乳母が、清盛の正室・時子であるということ。

かつて、信西が後白河上皇の乳父として、

権勢を振るったように、清盛は二条天皇の乳父であり、

それが二人の強いつながりになっていた。

虚空引き裂く母方遺伝因子  山口ろっぱ

ところが、応保元年(1161)9月、

上皇と天皇の協調体制が崩れる事件が起こる。

上皇の皇子で天皇の弟・憲仁親王(高倉天皇)

皇太子にしようとする企ての発覚で、

これは、時子の弟・平時忠が仕組み、

後白河上皇が加担したものだった。

憲仁親王の生母は、時忠の妹・滋子(建春門院)であり、

時忠は外戚の立場を得ることで、

平氏一門の繁栄をもたらそうとしたのだろう。

人生です紙風船を吹いてます  田中博造

しかしこの時、清盛は断固たる態度をとった。

二条天皇を擁護する立場をとって、

時忠を処罰するのみならず、

後白河上皇の院政を停止させるのである。

あくまでも、時の天皇を重んじる清盛は、

二条天皇の意向を無視した立太子を、

非常に無礼なことと考えたのだ。

祈る手は雑巾しぼる手に似てる  兵頭全郎

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この時、後白河上皇と清盛の間に、

感情のしこりが生じたのは間違いない。

滋子は清盛の義妹であり、後白河上皇が

「平氏一門の子が皇太子となれば清盛も喜ぶ」

と清盛にとっても良かれと思い、

為したことと、考えられなくもないからだ。

後白河上皇は、清盛に怒りを覚えたはずである。

俎板の窪みに溜まる雨の音  笠嶋恵美子

一方一門の子が、皇太子になり得たにもかかわらず、

それを阻止した清盛は、非常に筋を重んじたといえる。

後白河院政の停止後、二条天皇の親政が始まった。

もっとも清盛は、

後白河上皇への奉仕をやめたわけではない。

応保2年(1162)には、上皇から官職任命の儀式について

諮問を受けたり、後白河上皇のために、

蓮華王院(三十三間堂)を造営するなどしている。

≪この時期の清盛と後白河上皇について、

   政治的な対立があったとよく強調されるが、

   少なくとも、清盛にはそのような気持ちは一切なかった≫


三杯酢かけて亀裂を修復する  内藤洋子

この頃、一門の政治基盤を安定させるため、

清盛は摂関家に接近し、長寛2年(1164)に、

関白・藤原基実を娘の婿にとる。

翌永万元年(1165)7月には、僅か2歳の六条天皇に譲位し、

上皇となっていた二条天皇が崩御する。

ここで幼い六条天皇にかわって、

執政する立場となったのが、婿の藤原基実で、

清盛は8月に権大納言となった。

≪基実を支えるための任官である≫

ところが肝心の基実が、

あくる仁安元年(1166)7月病没し、

清盛は、二条天皇、藤原基実と立て続けに、

後ろ盾を失ってしまう。

うっすらと濡れている運命線の端  蟹口和枝

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これらを受け、再び後白河上皇による院政が始まる。

後白河は過去の経験から、

「清盛と提携した方が政権が安定する」と分っている。

そこで清盛と再び組むためにも、

清盛と縁の深い憲仁親王を皇太子に立てた。

清盛もこれを容認し、東宮大夫(とうぐうだいぶ)となった。

六条天皇は幼く、

母親が摂関家でも平氏出身でもないからである。

天皇家の安定を見据えるなら、

後白河、憲仁の系統が一番だと考え、

清盛は再び後白河と結んだのである。

一言めの「だから」の意味を解いている  佐藤美はる

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