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川柳的逍遥 人の世の一家言
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叩かれてじょじょに木魚になって行く  田中博造

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  蛭ヶ小島(頼朝配流の島)

「源頼朝ー流人時代の逸話」

びり事で伊東館おしくじり  江戸川柳


伊豆に流された頼朝は20年間、流人生活を送ったが、

流人といっても、

監視役の伊東祐親北条時政がうるさいことを

言わなかったので、かなり自由な毎日で、

祐親の京都勤番の留守には「伊東館」に足繁く通い、

娘の八重姫との情事で子をつくってしまった。

帰郷した祐親はこれを知り、

「清盛に知れると大変なことになる」

と、子を川に捨て姫を他家に嫁がせてしまった。

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冒頭の江戸川柳は、

頼朝が将来、まさか天下を取る男とは思いも寄らず、

祐親が、
「良い婿を取りはぐれてしまった」

と冷やかしたものである。

梵天の化身ぞ蝿は叩くまい  増田えんじぇる

頼朝が、次に手をつけたのが北条時政の娘。

嫁に行きそびれ、当時としては、

適齢期をとうに過ぎていた23歳の政子である。

時政も京都勤番から戻って、

2人の関係を知るところとなり、別れさせるために

政子を伊豆の代官・山木兼隆に嫁がせる約束をとりつけ、

「山木館」に送り込んだが、政子にとっては、

頼朝が最初の男、そう簡単にはあきらめられず、

深夜、脱走して頼朝の元に戻ってくる。

後日、時政は頼朝の人物を見抜き、2人の仲を認めるとともに

以後、頼朝の支援者になる。


ややこしい事おもむろに背を向ける  山本昌乃

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   頼朝と政子

頼朝の蛭ヶ崎の流人小屋には、

元流人僧の文覚がよく訪ねて来た。

文覚と知り合ったことが、頼朝のその後を大きく左右することになる。

文覚は以前は、遠藤盛遠という北面の武士で、

僧侶になったのは、

源渡の妻の袈裟御前とできてしまい、

その袈裟御前から 「夫を殺すよう」 唆かされ、

寝所に忍び込み、首を刎ねたら、首は渡ではなく、

袈裟御前だった。

そんなことから、盛遠は改悛して出家したという。

手にかけた袈裟を涙で首にかけ  江戸川柳

文覚が伊豆に流されたのは、この事件ではなく、

僧侶になってからの、寺院再建の騒擾問題だが、

刑期満了になっても都に帰らず、

伊豆を拠点に諸国を巡り、頼朝に情報を伝えていた。

挙兵を決意させたのも、平家追討の以仁王の令旨や

後白河上皇の院宣を持ち還ったのも文覚であった。

ヤキトリの串に隠れていた忍者  井上一筒

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「頼朝の助命から」

平治の乱で敗れた頼朝の父・源義朝は、

再起を期して東国に逃れたが、

尾張で無念の最期を迎えた。

当時14歳だった頼朝は父に従ったものの、

途中で一行とはぐれて捕らえられ、六波羅に送られる。

源氏の嫡男なので、死罪は免れない。

しかし、清盛の継母・池禅尼の要請によって、

死一等に減じられた。

痛点は同時多発を許さない  山田ゆみ葉

池禅尼は、清盛の父・忠盛の正室である。

清盛の弟になる家盛を産んだが、

家盛は、久安5(1149)に病没した。

それを悲しんだ池禅尼は、

処刑されようとする頼朝の容姿が

家盛によく似ていたため、

清盛に助命を嘆願したのだという。

御上さん一期一会が薄汚れてる  岩根彰子

『平家物語』によると、清盛はその願いを拒否したが、

池禅尼が断食をはじめたため、ついに折れて、

死罪から流罪へと減刑したとされる。

また、頼朝が仕えていた上西門院と、

後白河上皇の意向が働いたとの説もある。

疼くものそして流れてゆく時間  山本芳男

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源氏の芽を摘んでしまうと、

「平氏の専制に歯止めがきかなくなる危険性」

を考慮してのことだろうか。

伊豆の「蛭が小島」に流され、再期を期した頼朝は、

池禅尼の恩を生涯忘れなかった。

大地には計り知れない借りがある  嶋澤喜八郎

池禅尼の子で、平家盛の弟に頼盛がいたが、

頼朝は、頼盛に情を寄せた。

源平合戦の際も、

頼盛の軍に対しては、弓を引かせなかったという。

頼朝は壇ノ浦で平家一門を滅ぼしたあとも、

平頼盛を厚遇した。

神さまは耳の後ろにいるらしい  新家完司

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「武士が家督を継ぐための条件」

清盛の時代、武士が家督を継ぐための条件は、

生まれた順番ではなく、母親の出自が重要だった。

頼朝は、兄に武勇の誉れ高い悪源太義平がいたが、

母の家柄がよかったため、

三男ながら、当初より嫡子とみなされていた。

清盛の長男・重盛も、晩年は官位の面で、

清盛の正室・時子の子である宗盛の猛追を受けており、

長生きしていたら、

家督の地位を、譲り渡すことになったかもしれない。

≪事実、重盛の一族である小松家は、

   重盛の死後、一門の傍流に転落している。

   当の小松家にしても、重盛の嫡男は長男の維盛ではなく、

   藤原成親の妹を母にもつ三男・清経だったといわれている≫


ひなた水に浮かぶぼくらの蒙古斑  吉澤久良

重盛が死ぬまで、家督を失うことがなかったのは、

器量や人徳もさることながら、

母を早くに亡くした境遇が、

清盛に似ていたことも、理由だったかもしれない。

清盛自身、忠盛の正室である池禅尼が生んだ家盛に、

家督の地位を脅かされた経験もある。

母を早くに亡くした子どもの気持ちが、

清盛には、よくわかっていたのだろう。

盲点のそこにあなたがおりました  山口ろっぱ

家盛の同母弟・頼盛は、

清盛より15歳も年下だったので、

清盛の地位を脅かす存在にはならなかったが、

それでも忠盛の正室の子に、ふさわしい待遇を与えられた。

官位の昇進は、ふたりの異母兄・経盛・教盛より早く、

都落ち直前には、権大納言にのぼっている。

トンビから生まれたタカをもてあます  杉本克子

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頼盛邸より出土した器 (京都歴史資料館)        

「余談」  

頼盛「池大納言」と呼ぶのは、

六波羅の頼盛の本宅である「池殿」に由来するが、

これはもともと、池禅尼の家であり、

清盛の「泉殿」に匹敵する大規模な

邸宅であったといわれる。

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頼盛邸から出土した甕

福原の頼盛邸も福原遷都の当初、

安徳天皇の内裏とされたほどだから、

相当の規模だったに違いない。

邸宅の面でも頼盛の立場は、清盛に拮抗していた。

清盛につぐ、

「平家のもうひとつの顔」というべき存在であった。

気遣いに取り囲まれている安堵  黒田忠昭

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