忍者ブログ
川柳的逍遥 人の世の一家言
[281] [280] [279] [278] [277] [276] [275] [274] [273] [272] [271]
森の出口で象の手袋を拾う  本多洋子

futari-emaki.jpg

 後白河と清盛の蜜月時代

≪中央・清盛 上段に後白河≫

平治の乱から11年が過ぎた嘉応2年(1170)、

政界に確固たる地位を築いた
清盛は、

後白河とともに「宋人」と会見した。

貴族社会では外国人との接触はタブーであり、

非難の声があがった。

しかし、そんな批判を尻目に2人は、

宋との貿易を進め、利益をあげる。

このように清盛と後白河には、因習に囚われず、

実利を追求するという共通点があった。


直球が好きいちご大福が好き  下谷憲子

6102cf68.jpeg

(しかし、個性の一致は協調とともに、時として反目を生む。

清盛と後白河の関係は、権力をめぐる個性のぶつかり合いでもあった)


当初、清盛後白河と距離をおいていた。

「保元の乱」では、後白河方として参戦したが、

これは後白河との私的関係ではなく、

公的動員に応じたものであった。

また、「平治の乱」では、

後白河院政派の藤原信頼源義朝を討っている。

ぬかるみにある足跡を掘り起こす  東おさむ

乱後、院政を企図する後白河と、

親政をめざす二条天皇が対立すると、

清盛は二条親政派に属した。

後白河院政に属する平氏一門が、

清盛の義妹・滋子と後白河の間に生まれた憲仁を、

皇太子にしようと画策したが、清盛は加担していない。

二条はこの計画に怒り、後白河を政治決定の場から排除し、

清盛は二条の近臣として、親政を支えた。

支え合ってる三角形の角度  大嶋都嗣子

c5bbc5ef.jpeg


滋子と憲仁

ところが、永万元年(1165)、二条が世を去り、

幼い六条天皇が跡を継いだ。

後白河は復権に動き出し、憲仁を即位させようと考えた。

一方、清盛も二条が亡くなった今は、

甥の憲仁の即位に賛成し、

後白河との提携に踏み切った。

指きりは隣の指に内緒です  黒田るみ子

d8e74d67.jpeg


清盛日招像(音戸の瀬戸公園)

「太政大臣清盛」

その結果、仁安元年(1166)11月、

清盛は、「内大臣」に昇進、

翌年2月には、最高の官職・「太政大臣」に達した。

清盛の太政大臣就任を評価すべきという考え方もあるが、

内大臣に昇進したことこそ、

大きく評価すべきことなのだ。

なぜなら、清盛のような「院近臣家出身者」は、

「大納言」を極官とし、大臣には到達できない家格である。

(当時、家格は厳密に区分され、

  家格ごとに官位昇進過程や極官は決まっていた)


五分後は紋白蝶か毒グモか  森田律子

清盛ら院近臣出身者が、公卿に至る昇進過程には、

「実務官人系コース」「大国受領系コース」の2つがある。

実務官人系コースは、官人として政務や儀式に奉仕し、

「正四位下から参議」に至る過程である。

大国受領系コースは、実入りのいい大国の受領となって、

院に経済的に奉仕し、「非参議従三位」に至る過程である。

それぞれ公卿に到達すると、

大納言にまで進むことができたが、

それ以上進むことができなかった。

(それこそが家格の限界である。清盛がその家格を超え、

  大臣に到達したことこそが、重要な事実といえる)


闇市で拾った首が私です  谷垣郁郎

8267c4ef.jpeg


では、なぜ清盛は、内大臣に就任できたのだろうか。

清盛が内大臣や太政大臣に補任され、

それに対して批判がされていないことを考えると、

清盛が白河院の落胤であるという説が、

真実味を帯びてくる。

(真偽は別にして、清盛の大臣昇進は、

 皇胤であることが、政治的に認定された証しといえる。

 そうでなければ、院近臣出身の清盛が本来の家格を超えて、

 大臣にまで出世する理由がなりたたない)


自画像を吊るす糺の森深く  嶋澤喜八郎

いずれにしても、清盛の大臣昇進は、

政治的に大きな意味をもち、

清盛が後白河院の王権を支える体制ができ上がった。

また、清盛が大臣に昇進できた背景に、

後白河院との提携関係があったことは言うまでもない。

イントロの間に富士山に登る  清水すみれ

89aca8b5.jpeg


さらに、清盛は内大臣昇進の翌年「太政大臣」に至る。

太政大臣は、太政官の中で最高の官職であるが、

当時、太政大臣に政治的実権はなく、

名誉職の意味合いが強いものであった。

もちろん、皇胤と認定されたとはいえ、

武士出身の太政大臣は、史上初めてのことである。

叛くかも知れないけれど瞳を入れる  笠嶋恵美子

しかし、清盛は、

「就任からわずか3ヶ月で太政大臣を辞任」 した。

実質的な力のない太政大臣に、

長くとどまる必要がなかったのかもしれない。

辞任後、清盛は前太政大臣(さきのだじょうだいじん)として、

政治に関わっていくことになる。

善玉の綿に限界説の壁  井上一筒

清盛が辞任する直前の仁安2年5月10日、

嫡男・重盛は、院から

東海・東山・山陽・南海道に対する追討権を与えられ、

「軍事・警察権」を得た。

これは清盛から重盛への、

代替わりを明確にする意味をもっていた。

この権限を与えた後白河院にしてみれば、

清盛よりも、まだ若い重盛のほうが、

扱いやすいと考えたのかもしれない。

(ただし、重盛に与えられた軍事警察権は、

  院から与えられたものであったが、

  院の軍制下に入ったわけではなかった)


本心は気付かぬ振りの丸い鼻  合田瑠美子

その後、後白河は憲仁(高倉天皇)を即位させ、

院政を確立。

平氏は政治と軍事の両面から院政を支えた。

以後、後白河と清盛は、協調して政治をおこなう。

「日宋貿易」の振興はその顕著な例であった。

さらに、清盛の娘・徳子高倉天皇の后妃となり、

平氏は栄華を極めた。

生き方を変えても甘いものは好き  新川弘子

拍手[3回]

PR


Copyright (C) 2005-2006 SAMURAI-FACTORY ALL RIGHTS RESERVED.
忍者ブログ [PR]
カウンター



1日1回、応援のクリックをお願いします♪





プロフィール
HN:
茶助
性別:
非公開