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川柳的逍遥 人の世の一家言
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傍目には面白すぎる三つ巴  菱木 誠


晋作が妻・雅子に送った手紙 拡大してご覧下さい)

武士の妻は町人や百姓の妻とは違うということを忘れぬ事」などと、
書かれている。筆まめな晋作は、雅子や愛妾以外にも同志たちに
数多くの手紙を送って自らの思いを伝えた。 (萩博物館蔵)

「晋作と2人の女性」

高杉晋作には妻・雅子と下関の芸妓・おうのという女性がいた。

雅子は、弘化2年(1845)、長州藩・井上平右衛門の次女に生れた。

「萩城下一の美人」と謳われ、早くから縁談が殺到したといわれる。

そこで絞り込んだ三件の書状をクジにし、

雅子が選び取った一つの中に書かれていたのが、

「高杉晋作」の名前で、安政7年(1860)1月に祝言をあげた。

晋作は自筆の履歴の中で、

「父母の命により、井上家の娘を娶る」

と書く以外に、結婚について何も語らず、関心は薄かったらしい。

時に雅子16歳、晋作22歳。

美しいため息になる非常口  赤松ますみ


  高杉雅子

雅子は晋作の愛妾おうのと交友関係を持ち、
晋作の死後も交流を続けていたといわれる。

しかし、「三国一の花婿を引き当てた」 と祝福された雅子の

晋作との結婚生活は短いものだった。

晋作は結婚1年後に、藩士としての出仕をスタート。

このままいけば、美男美女の若夫婦として、

つつましく生活を送っていけるはずだった。

”西に行く西行、東に行く東行”        

だが時代は、晋作を放っておかない。

薫風の真っ只中を瞬間移動  板野美子

晋作は結婚2年後に、藩命を受けて上海を視察し、

その後は、国事に東奔西走し、萩の家に長くいることがなく、

一緒に暮らしたのは、つめて、約1年半という短さであり、

舅らと離れて住んだのは、文久3年(1863)4月、

晋作が萩郊外に隠棲していた2ヶ月ほどであった。

ただ、翌年には後継ぎとなる長男・梅之進(東一)も誕生し、

雅子は武家の嫁の役目を一つ果たしたと思っただろう。

ほんのりと空気のように坐ってる  谷口 義

雅子は不在の夫とは、頻繁に手紙のやりとりをした。

晋作からの手紙は、ほとんど武士の妻たる心構えに終始し、

雅子に教養を積むように求めていたが、

晋作は時に長文になる雅子の手紙が届くのを、

楽しみにしていたという。

「高杉の両親も井上(雅子の実家)も大切にせよ」、

「武士の妻なのだから、気持ちを強く持って留守を良く守れ」

「曽我物語やいろは文庫などを読んで、

   心を磨くことを心がけること」

「武士の妻は町人や百姓の妻とは違うのだから」

「武士の妻」としての心得が綴られている。

私の言葉で綴る恋の文  永井玲子



晋作が描いたと言われる”おうの”の後姿 (右下に東行のサインが見える)      

また晋作は、美人の妻がいるにもかかわらず、

洒落者で遊郭好きの男である。

元治2年(1865)に、藩内クーデターを起こして、

俗論党を打倒した際には、芸者たちに三味線を弾かせながら、

藩庁に入城するほど、彼は花街を愛した。

そして晋作といえば、芸妓・おうのとの愛が有名である。

正妻の家には、帰らなかった晋作だが、

おうのといると、心が安らいだようで、

時間の許す限り、近くにおいたという。

【晋作は優しい夫で、妻・雅子は一度も叱られたことがなかった、
  というが、
やがて、夫に愛妾・おうのがいることを知った雅子は、
  腹立ちのあまり、慶応2年2月、義母と息子と一緒に、
  夫が同棲中の下関へ一時、引っ越すこともした】

笑顔の裏も笑顔だなんていい人ね  八田灯子


  おうの

高杉晋作は藩命で下関の白石正一郎邸で「奇兵隊」を組織し幹部を
引き連れ、
堺屋で宴会を開いていた、その席でおうのと出会った。


晋作がおうのと出合ったのは、下関の茶屋。

そこでは、おうのは「糸」と名乗っていた。

晋作が24歳、おうの20歳のときであった。。

伊藤俊輔らは、おうのを見て、

「晋作ほどの人物がなんであんなボケっとした女と…」

と不思議がったという。

だが、晋作にとって、とても大人しく優しい性格で、

おうのの、このぽけっとした天然の部分に、

日ごろ荒みがちだった晋作は癒されていた。

トンボの眼 360度 空色  本多洋子

筆まめな晋作は、雅子以外、おうのにも同志たちにも、

数多くの手紙を送って、自らの思いを伝えている。

慶応2年4月5日付、愛人・おうのへの手紙には

「人に馬鹿にされないように」

「写真を送るので受け取るように」 と綴られている。

こうした手紙から、晋作の本性をうかがい知ることができる。

雅子宛の手紙は漢字が多く、愛人・おうの宛の手紙は、

平仮名が多く、晋作の心遣いが伝わると同時に、手紙を読む限り、

放蕩のはねっかえりの晋作はどこにも見られないのである。

芋焼酎バカラで飲むと美味になる  新川弘子


     晋作墓所

晋作の遺骸は遺言により奇兵隊の本拠に近いこの地に葬られた。
奥が東行庵 (近くに、おうの・(谷梅處尼)が眠る)

小倉戦争後、肺結核になった晋作の体調は悪化する。

馬関新地の庄屋林算九郎邸の離れで療養する。

おのうは晋作の恩人・野村望東尼の援助を得て、

ひたすら晋作の看病に努めた。

望東尼は、晋作の正妻の雅子が訪れる日に、

雅子とおうのの緩衝役を買って出た人でもある。

しかし、晋作は志半ばで慶応3年(1867)4月13日、

29歳で亡くなってしまう。

晋作は死の間際、「吉田へ・・・」 と、うわごとを言ったという。

奇兵隊の本拠地・吉田郷のことと皆が思い、

遺体は、吉田の清水山に葬られた。

雅子と晋作は7年、そして、おうのと晋作は出会いから4年、

短い愛の終焉であった。

解剖のときも麻酔をたのみます  井上一筒

維新後、亡き夫・晋作の名声が高まってくると、

雅子は一人息子の教育のため、

東京に出て粛々と暮らし、息子・東一を育てあげた。

大正2年、雅子は外交官などを努めた息子を先に亡くす

悲しみにも遭ったが、孫への血脈は受け継がれ、

大正11年1月9日、78歳で死去。

"文見てもよまれぬ文字はおほけれど なおなつかしき君の面影"

これは雅子が37歳の時に詠んだ歌である。

このころには、彼女を困らせた晋作との思い出も

愛おしいものとなっていたのに違いない。

ふたりして上げた花火をどうしよう  森口かなえ


   梅処尼
                            たにばいしょう
一方、おうのは晋作の死後、剃髪(明治14年)梅處梅処尼)と名乗り、

明治42年8月7日 、67歳でこの世を去るまで、42年間、

「東行庵」と名付けた庵で、生涯、晋作の菩提を弔った。

「谷」の姓は、晋作が晩年 藩主から授かった苗字で、

晋作の死後、梅処尼に引き継がれた

雅子とおうの、同じ男を愛した女同士で気の合うところが、

あったのだろう。

どちらかが欠けるまでその付き合いは続いた。

カンツォーネおとなの恋をしています 美馬りゅうこ

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