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川柳的逍遥 人の世の一家言
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依頼人はタンポポ引受人は風  徳山泰子


高杉晋作による藩政奪還の戦い(大田絵堂の戦い)

当初は傍観していた諸隊だったが、高杉が挙兵すると次第に合流。
藩政府側は毛利宣次郎を諸隊鎮静手当総奉行とし、追討隊を進発させた。
年が明け慶応元年1月14日正午ころ、大田絵堂において、
藩政府軍と
正義党とが激突。 政府軍優勢の中で大激戦となるも、
遊撃軍30余名が東側の小中山から、また、奇兵隊が大木津口より
政府軍の側面をつき、10日間の激戦の末、正義党が勝利をおさめた。

先生が見つけなければただの石  河村啓子




「高杉晋作 蜂起する」

禁門の変の際、天王山に追いつめられた宇都宮の広田精一は、

切腹直前、晋作宛てに1通の手紙(遺書)を書いている。

この一通の手紙が高杉晋作を「功山寺決起」へと動かした。

「……今度の義挙大敗……河野(久坂玄瑞)牛敷(寺島忠三郎)

   入江(九一)来翁(来島又兵衛)討死。

   所詮尊兄(高杉)一人、何卒割拠を御主張になられ、

   四君の任を一身に担当になられ候程の御尽力、伏して望み候。

   中略…昨日の戦争、平日操練の形に振り回し候者一人もこれ無く、

   会(津)の兵法に及ばざる事遠し、

   これらの弊、急速御一洗、号令を厳にし、

 兵士を精選する事御担当、

   兎角何事も御一身に任ぜられ候よう、伏して望み候」  

散り際の啖呵は砂利を吐いてから  小林すみえ      



遡ること5年前の安政6年11月、師の松陰が処刑された1月後、

高杉は藩重役の周布政之助への手紙に

「我が師・松陰の首、ついに幕吏の手に掛け候の由。

…中略…仇を報い候らわで安心仕らず候」 

と記している。

広田の手紙は、晋作のこうした厭悪の思いにさらに火を点けた。

「久坂や入江、そして己の志を自分に(晋作)に託して自刃した。

  師の仇敵を抱える幕府は、

  かけがえのない盟友たちの仇敵ともなった。


  もはや我らの手で切り 拓くしかない」

倒幕を終点地と定めながら、当面は内乱を鎮めること。

かくして高杉は、「功山寺決起」に踏み切ったのである。

 迷いなく大きなつづら金の斧  岡谷 樹

 
       赤根武人罪状一件
                  

功山寺挙兵を受けて、椋梨の下、藩政府は19日になって、

急進派幹部7人を斬首し、さらに追討隊を組織した。

これにより赤根武人による「融和策」は瓦解。

武装解除を通達された諸隊は、高杉らと合流することになった。

「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し」

とは、伊藤俊輔が高杉を評して言った言葉である。

まさに電光の如く、伊崎の藩庁出張所を制圧。

すぐに近傍の寺に屯営を構えて、三田尻に停泊中の藩艦を奪取。

やがて、高杉の元に奇兵隊や急進派も参集。

彼らは「正義派」と称され、

「俗論派」主導の藩政府への抵抗勢力となった。

いい奴を送る煙たいのが残る  藤井孝作


山口の湯田温泉に「松田やホテル」に残されている檄文

晋作は、決起に際して示した「檄文」で、

藩政を私物化する「姦吏」「御国家の御恥辱」とまで糾弾し、

そして翌元治2年1月5日より、

5度に亘り両勢力による内訌戦を展開。

民意も得た高杉らの軍は勇戦し、

やがて藩政から幕府恭順勢力を払拭した。

この決起と戦闘には、俊輔や山県狂介ら旧松下村塾の少壮も、

果敢に加わり、師・松陰の評価の通りの働きを果たしている。

「松陰の人物評」 (『己未文稿』)
【太郎(原田)・松介(松山)の才、直八(時山)、
  小助(山県狂介)の氣、 傅之輔(伊藤俊輔)の勇敢にして事に当る、
  仙吉(岡仙吉)の沈静にして志ある、亦皆才と謂ふべし。
  然れども、大識見大才氣の如き、恐らくは亦ここに在らず。
  天下は大なり、其れ往いて遍く之れを求めよ

さらに他日の書簡でも伊藤については、

「周旋力」を高く評価している。

亡師の洞察に応えるかのように、彼らは以降も邁進した。

放電をしなさい灰になりますよ  森田律子

 
   伊藤俊輔

長州藩内が内戦のような状態に陥っていた12月27日、

幕府軍は長州から撤兵している。

明けて元治2年1月6日、諸隊は絵堂の藩政府を攻撃。

以後10日間にわたる武力衝突となる。

高杉らの軍は優勢だったが、勝利を得るまでには至らなかった。

こうした膠着状態が収束したのは、「中立派」の家臣団が結束、

諸隊とともに「保守派」を攻撃し、内乱の終結を図った。

これらの動きから、

藩主の毛利敬親は椋梨らを罷免することにした。

こうして再び、藩の中枢から保守派が一掃され、
                                                      さねおみ
2月には、高杉、広沢真臣、前原一誠らによる政権が擁立された。

だが以前のような過激な攘夷運動を目的とせず、

力を蓄えられるまでは,幕府や諸外国に対し、

「武備恭順」を藩是とした。

想定外をテロテロ嗤うイカフライ  山口ろっぱ

この事態を受けて、危機感を抱いたのが幕府である。

彼らは再度の「長州征伐」を視野にいれ、

慶応元年(1865)5月には将軍・徳川家茂が大坂に入った。

さきの己未文稿で松陰は、門下双璧とされる高杉と久坂を
      がぎょ
「人の駕馭を受けざる(恣意のままに動かされぬ)高等の人物なり」

と絶賛。

高杉晋作は、もはや幕府に対して、些かも信頼を置かずに、

自分たちの手で新たな日本を切り拓こうとの決意を固める。

裏切らぬものの一つとしてバナナ  中野六助

「松陰から高杉晋作へ壮行の辞」(安政5年7月)

『僕はかって同志の中の年少では、久坂玄瑞の才を第一としていた。
  その後、高杉晋作を同志として得た。
  晋作は識見はあるが、学問はまだ十分に進んでいない。
  しかし、自由奔放にものを考え、行動することができた。
  そこで、僕は玄瑞の才と学を推奨して、晋作を抑えるようにした。

  そのとき、晋作の心ははなはだ不満のようであったが、まもなく、
  晋作の学業は大いに進み、議論もいよいよすぐれ、
  皆もそれを認めるようになった。
  玄瑞もそのころから、晋作の識見にはとうてい及ばないといって、
  晋作を推すようになった。

  晋作も率直に玄瑞の才は、当世に比べるものがないと言い始め、
  二人はお互いに学びあうようになった。
  僕はこの二人の関係をみて、玄瑞の才は気に基づいたものであり、
  晋作の識は気から発したものである。
  二人がお互いに学びあうようになれば、
   僕はもう何も心配することはない
と思ったが、

  今後、晋作の識見を以て、玄瑞の才を行ていくならば、

  できないことはない。
  晋作よ、世に才のある人は多い。
  しかし、玄瑞の才だけはどんなことがあっても失ってはいけない』

見つけてください私は此処にいるのです 春野ゆうこ

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