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川柳的逍遥 人の世の一家言
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極楽も地獄の鐘もただゴーン  奥山晴生


南蛮屏風 に描かれた南蛮人(長崎歴史文化博物館蔵)

中央で傘をさしかけられ、腰にはサーベルを携え、
赤いマントを風になびかせている男性は、南蛮船の船長だろうか、
後ろにお供が続き、黒人も描かれている。

「バテレン追放令」

フランシスコ=ザビエルは、布教のための道を開いた段階で

日本を去ったが、その後、来日した司祭、修道士たちによって、

キリスト教は着実に根をおろしていった。

その頃、仏教そのものが衰退していたことも、一つの原因であり、

さらにイエズス会がその地の戦国大名に積極的に働きかけ、

大名を受洗させていったことも大きい。

彼らをキリシタン大名とよぶが、肥前の大村純忠を皮切りに、

大友宗麟、有馬晴信、高山右近、結城忠正、小西行長らが、

キリシタン大名となっていった。

信じたいからポケットはめくらない  森田律子


    南蛮貿易

ただ注意しなければいけないのは、

彼らが単純に信仰上の理由からだけで、受洗したわけではなかった。

イエズス会士たちは、戦国大名たちが隣国との戦いに勝つため、

鉄砲・火薬・皮・鉄といった軍需物資を

欲しがっていたことも知っていた。

ポルトガル商船によってそれらの品を運ばせ、

それと引き換えに領国内布教の許可を得たのである。

こうして天正10年(1582)には、

15万人のキリスト教徒が生まれた。

当時の日本の総人口は1千5百万人ほどだから、1%の比率になる。

それから数年の後には、キリスト教徒が70万人にも急増している。

玉葱の甘さあなたも剥きなさい  蟹口和枝


  バテレン追放令

ところが、天正15年(1587)九州平定がすむと秀吉は、

長崎とその周辺がイエズス会領とされている状況を問題視し、

「バテレン(宣教師)追放令」を発した。

九州平定後の国分けで、島津氏を薩摩・大隅の2国と日向の1部に、

大友氏を豊後へ、竜造寺氏(鍋島氏)を肥前佐賀へ封じ、

そのほかの領地には、

在地の小大名や自分に協力した大名に恩賞として与えた。

その時、イエズス会による長崎の領有が問題となったのである。

お静かに0と1との会議中  上山堅坊

秀吉にとって主権者が誰か、明確にしておく必要があったのだろう。

そこで早速秀吉は、長崎・茂木・浦上の地を没収して直轄領とした。

しかし追放令真の狙いは、長崎における南蛮貿易の利益を抑えることにあった。

現に、ポルトガル船の来航は禁止されず、

追放令後のキリシタン取り締まりは、さほど厳しくなく、

彼らは非公然ではあるがかなり自由に活動している。

おとといを流して仮面着け替える  笠嶋恵美子

「挿し込みエピソード」

ーバテレン追放令撤回を求めるために秀吉に会見を願いでる官兵衛。

「九州平定を終わって国分けを行おうとしていた秀吉のところに

   官兵衛が参上しても、官兵衛に会おうともしなかった。

   秀吉は官兵衛に三か国を与えるような期待を抱かせながら、

   豊前しか与えず、

   それも豊前国の一部を接収して毛利吉成に与え、

  『汝がキリシタンゆえにこそこれを没収した』と言った」

と記している。
                ルイス・フロイスの「日本史」より

茹で過ぎたパスタスタメン外される  山本早苗


ポルトガルのキャロック

さて、布教活動が広がっていく一方で、

インドや東南アジアの緒地域でみせたように、布教の名を借りた

日本植民地化計画の方針があった疑いがある。

長崎からイエズス会総会長に送った書簡の一節に、

次のような驚くべき内容が書かれているのである。

「日本は海軍力が非常に弱く、兵器に不足している。

   そこでもし国王 陛下が決意されるなら、

   わが軍は大挙してこの国を襲うことが出来よう。

   そしてこの地は島国なので、主としてその内の一島、

   すなわち下又は四国を包囲することは容易であろう」

トンネルの横に実験室はあり  井上しのぶ

下というのは九州のことなので、ポルトガルが日本を攻めれば、

九州と四国ぐらいは奪い取れると言っているのだ。

従来、この文書の存在はあまり知られていなかったらしく、

ポルトガルによる日本植民地計画については議論にならなかった。

しかしこの書簡の発信者ペデロ・クルスは、

長崎で神学を教授していたイエズス会の中での文化人、知識人であり、

そのような人物がイエズス会会長に日本への

軍事力行使を勧告している点は、無視できないのではないか。

ぼこっぼこっとアスファルトから黒い手が 山田ゆみ葉

秀吉・家康が彼らの意図を見抜いていたかどうかは分からないが、

秀吉・家康によるキリスト教弾圧は、この点に限ってみれば、

結果的にポルトガルの軍事的進出を阻止したことになる。

だしじゃこの訴訟もやがてケリが付く  井上一筒

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俎板に水の残っている揺らぎ  八上桐子


   藩中屋敷

20万石程の大名屋敷の大きさ歌川広重絵)

「官兵衛の報酬について考える」

稀代の軍師と言われ、天下統一の陰の立役者である官兵衛は、

生涯、一度の負け戦もなく、秀吉の側近として活躍した。

その秀吉との二人三脚とさえ言われる彼の評価は、

当時の報酬で考えたときに、果たしてふさわしかったのか。

とくに九州征伐後の彼に対する恩賞は中津・12万石。

これは官兵衛の働きに対する報酬としては、

不十分なものだったという印象を持つ人が、沢山いる。

一昨日がアルミホイルにくっついて  オカダキキ

しかし、数字だけで追わずに背景を辿ってみると、

当時、秀吉の無二の親友である蜂須賀正勝が、

九州攻めで得た報酬に次ぐ、石高だった事実にたどりつく。

官兵衛は四国攻めが終わったころに、4万石の大名だったが、

九州の島津征伐後には豊前国の3分の2を与えられ、

12万石の大名になった。

この数字を加藤清正や石田三成、福島正則らが20万石以上を

得たのと比べて少なすぎると感じ、

「秀吉に警戒されて冷遇された」

という話が黒田家譜にさえ書かれている。

つま先立ちでみるあいまいな未来  高島啓子

だが、これには間違いが二つある。

一つは、官兵衛が豊前を与えられた段階でいえば、

織田軍団と関係ない毛利上杉に代表される外様的大名、織田家一族、

それに、前田・佐々・丹羽など秀吉の同僚というべき有力・織田家臣。

さらに、秀長秀次のような豊臣家の人々を別にして、

秀吉譜代の家臣群のなかでは、

蜂須賀正勝の阿波一国というのが最大で

その次が、官兵衛の豊前国の3分の2なのである。

生乾きのかさぶたを剥がしましょうか  岡谷 樹


  福岡城本丸の図

次に石高だが、公平に比較するために、

太閤検地の結果をもとにした慶長3年の国別石高でみると、

阿波が18万石に対して、豊前が14万石だから、

官兵衛は10万石程度ということになる。

江戸時代の大名の石高として知られるのは、

関が原の戦いのあと諸大名が、江戸幕府に自主申告した石高で

豊前一国プラス豊後の一部を与えられた細川忠興

38万石だったことからすると、

豊前一国は30万石に値するものである。

比率くずせば幽霊になりますが  徳山泰子

徳川時代は豊臣時代よりかなり水増しされた数字になるが、

太閤検地で10万石程度というのは、

江戸時代の20万石以上に相当するのである。

ただし、官兵衛に豊前が与えられたより後になって、

加藤清正、小西行長、福島正則、石田三成などに

10数万石とみられる領地が与えられている。

このあたりは、世代交代で次の世代がそれぞれの功績に応じて、

大きい領地を得たのである。

それに対して、官兵衛は全盛期を過ぎ、長政は若かったから、

まだ加増されなかったと考えられるのである。

微調整ならと水溶き片くり粉  山本昌乃


「官兵衛を苦々しく思う秀吉」

秀吉は官兵衛の優れた才智や野心家ぶりを警戒して、

「官兵衛を自分から遠ざけた」という説がある。

これも黒田家譜に書かれてある。

官兵衛と親しかった小早川隆景は、

「官兵衛は素晴しい知恵者で、なんでもどんどん決めていく。

   私はかれほどの才能はないので決めることには慎重だが、

   じっくり考えるお陰で間違ったことには,滅多にならない」

と評した。

イケメンの駱駝に乗ってきた胡椒  山本早苗

そうした官兵衛の才気煥発ぶりや、恩賞の約束を言いふらして、

危ういと見られていたという話は、多々、伝えられている。

かなり広く官兵衛についての人物評として、見られるところで、

官兵衛がそういう印象を与えていたのは事実のようである。

秀吉は官兵衛が自分と同じような考えをすることを、喜んでいた。

ただ、秀吉が政治的な判断で口にしないことを、

すぐに言ってしまうことを、

秀吉は善くも悪くも疎ましく思うようになった。

すなわち、秀吉は官兵衛の才能を買っていたが、

世が落ち着きだして、官兵衛の出過ぎることを

「苦々しく思った」というのが真のところであろう。

さすがの官兵衛も戦術は得意だが、処世術は駄目だったようだ。

わたしよりわたしの口が前に出る  大海幸生

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変身の刑豚までにしてほしい  井上一筒



秀吉の書状

「領土確定問題」

「山崎の戦い」のあと秀吉が大坂城の築城と平行して、

取り組まねばならない課題が、

毛利氏との「領土確定問題」であった。

一般的には備中・高松城での講和で毛利氏との関係は解決した、

と見られているが、実は棚上げしたに過ぎなかったのである。

この領土問題に際して、秀吉は小早川隆景に書状を送り、

「自らが交渉に乗り出す」 と述べている。

しかし、これはいつもの秀吉の恫喝手法であって、

自身が交渉にあたるわけだはない。

その時刻には沈黙を手向ける  居谷真理子


   蜂須賀正勝

秀吉側で交渉に担当したのは、官兵衛蜂須賀正勝

一方、毛利側は安国寺恵瓊である。

恵瓊は毛利氏の配下にあって、秀吉とも交流があり適任といえる。

恵瓊は「信長の没落と秀吉の興隆」を予言した人物としても知られ、

交渉能力も優れていた。

何より情報収集と分析に優れており、

的確な判断を下すことに定評があった。
                               さるかけ
そして天正11年12月、恵瓊と就連は備中・猿懸城に赴いて、

官兵衛と正勝との面会を果たした。

もぐらたたきせめて一発反したい  柴田園江

高松城の戦いは、本能寺の変が勃発したこともあり、

とりあえずは清水宗治の切腹により幕を閉じた。

秀吉側が条件を少し譲歩したとはいえ、

実態としては、毛利側が不利なまま、終局を迎えた。

そのことを実感していたのは恵瓊であった。

そのような事情から、秀吉の要求は実に厳しいものであった。

秀吉が毛利氏に割譲を求めたのは、

備中・美作・備後・伯耆・出雲の五カ国である。

さすがに毛利氏側もすぐに呑むわけにはいかなかった。

流されているなと思いつつ流れ  前田咲二


  安国寺恵瓊の板絵

安国寺恵瓊は安土桃山時代の禅僧で大名。
「板絵」は約40㌢四方の大きさで江戸時代に描かれたとされる。

結局は備中・美作・伯耆に絞られた。

それでも、この交渉は難航を極めた。

① 備中外部を秀吉に譲る。
② 美作を秀吉に譲る。
③ 虎倉山、岩尾城からの撤退。
④ 常山城、松山城、高田城から一つ選択して残りは放棄する。
⑤ 伯耆の八橋城の割譲。

備中・美作の割譲プランである。

秀吉の要求はあまりに厳しかった。

官兵衛・正勝からすれば、備中半国を譲った形であるが、

当初から織り込み済みであったのだろう。

逆に恵瓊らにすれば、大きな成果であった。

身辺整理わたくしをそぎ落とす  岡内知香

ところが天正12年3月、「小牧・長久手の戦い」が勃発し、

官兵衛と正勝は交渉をいったん打ち切り、急遽帰国している。

改めて毛利氏との領土確定交渉が行われ、

解決したのは天正13年の2月であった。

毛利氏は備前と高田城を引き渡し、

八橋城と松山城はそのままということになった。

備中も高梁川から西を確保することができた。

この交渉における恵瓊が果たした役割はかなり大きい。

こうして毛利氏は、秀吉と和睦したが、

以後は秀吉の先兵として、各地に出陣することになる。

せめてこの一瞬凍らせてみたい  立蔵信子

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大根をおろすとじゃこが身構える  井丸昌紀


 秀吉・義久和睦の像

剃髪した島津義久は、名を龍伯と改め、薩摩川内の泰平寺において、

秀吉に跪いて降伏し、3歳にも満たない3女・亀寿を人質に出した。

「九州平定」

四国を平定した秀吉の、次なる目的地は九州であった。

九州とは、九つの国=州が集まっているという意味。(現在は7県)

筑前・筑後・豊前・豊後・肥前・肥後・日向・大隈・薩摩 を指す。

天正年間の初め頃は豊前、豊後を大友氏、肥前・筑後を龍造寺氏
                                                                ていりつ
薩摩・大隈を島津氏が抑え、鼎立していた。

一房の夢と甘露を追いかける  吉川 幸

それが徐々に島津氏の勢力が拡大していった。

天正6年の「耳川の戦い」で

九州最大の勢力を誇る大友宗麟の軍を破り。
                おきたなわて
さらに、天正12年の「沖田畷の戦い」では、

九州西部に勢力を誇っていた龍造寺隆信を敗死させた。

こうして島津氏が九州最大の戦国大名となれたのも、

当主・島津義久義弘・歳久・家久という優秀な3人の弟がいたから。

ともに武将としての資質に富み、精強な家臣団を抱えていた。

詰め込むとどこか歪みの出る器  たむらあきこ


   大友宗麟

彼らが協力して一時は、

豊前の一部を除く九州全土に版図を拡げたのである。

そんな島津氏の圧迫に苦しんでいた大友宗麟は、

秀吉に救いを求めた。

秀吉としても、九州全土を島津氏が支配するのは面白くない。

そこで天正13年(1585)10月、島津氏に停戦命令を下した。

その年の7月11日、秀吉は関白に任官したため、
                        そうぶじれい
朝廷の権力を背景に私闘を禁じる「惣無事令」を発令したのだった。

そして、天正14年5月に秀吉は、

肥後半国、豊前半国、筑後を大友氏に返すように命じた。

海胆の分際で信号無視をする  井上一筒

しかし島津氏は従うどころか6月になると逆に大友領に攻め込んだ。

その報に接した秀吉は、

7月に官兵衛を九州先遣隊として先発させる。

10月、途中で、毛利輝元・吉川元春、小早川隆景の毛利隊と合流、

官兵衛は、部隊の軍監として2万5千余りの兵で豊前へ攻め入った。

8月、豊前に着陣した先遣隊の一部は、高鳥居城を奪還、

小倉城を攻略。
       うるづ
つづいて宇留津城をわずか一日で陥落せしめ、

1千余りの首を斬獲したばかりか、

男女373人を生け捕りにして磔にかけた。

とんがらし入りの目薬です どうぞ  中村幸彦

無益な流血を伴う武力行使を、極力回避しようとした官兵衛の

戦術思想とは、相容れないとも思える行為だが、

実はそうではない。

宇留津城攻めでの厳酷な行為は九州平定に向けての、

周到な布石であった。

抵抗勢力を苛烈に処断することで、脅しの一面を見せる一方、

官兵衛は島津方になびいた大名や国人衆のもとへ

使者を送り込んでの調略を策すのである。

使者に選んだのは貝原市兵衛久野勘介だった。

変換キー願いを聞いてくださいな  下谷憲子

「九州の諸将は関白殿下の勢威盛んなることを知らず、

   島津になびいている。

   連中のもとへ使いして殿下の武威を知らしめよ」

「仰せながら、それだけでは容易に膝を屈するとは思えませぬが」

「来年には、殿下自ら九州へ下向なさることになっている。

   降参して味方するならば、

   殿下によきように申し上げて本領を安堵すると約束してやれ」

続けて官兵衛は、次のような言葉をつけ加えた。

「即座に島津と手切れ出来ないというのであれば、

   内々に志を通じ、殿下の御下向を待てと伝えろ.
              したた
   詳しくは、この廻文に認めてある」

官兵衛は、島津の報復をかわすための手順の詳細まで明示して、

細やかな気配りを演出したのである。

またこの廻文を、わざと敵の手に渡らせて、

疑心暗鬼を生じさせる作戦も考えていたのである。

まず致死量を確かめてからジンライム 山口ろっぱ


   貝原市兵衛       久野勘介

貝原市兵衛は、小倉から海路を経て筑前・筑後・肥後へ赴き、

久野勘介は、陸路を辿って筑前・秋月に至り、

さらに筑後・豊前の諸所を巡り、廻文を呈示して口上を述べた。

結果、諸将の多くはその旨に従って密かに内通を約束。

翌天正15年3月、秀吉自らが20万を超える大軍を率いて、

赤間関(下関)に着陣する。

九州に入ると秀吉は10万余りを率い肥後路を通って鹿児島を目指す。

弟の秀長が率いた10万余りの別働隊は日向路に向かう。

官兵衛はこの別働隊に参加している。

ブレーキを踏まずに交差点通過  笠原道子


義久秀吉と謁見の場面

秀吉をグッと睨み、悔しそうな義久の表情が滲みでている。

かくして秀吉が九州に入ると帰順する小大名が多く駆けつけた。

飴と鞭を見事に使い分けた、人間通の官兵衛らしい「勧降」である。

結果、秀吉軍に薩摩まで追い詰められた島津義久は、

秀吉への臣従を決意。

およそ2年をかけ、ついに九州平定となったのである。

細胞分裂喧嘩は止めにしませんか  竹内ゆみこ

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TAXI に乗ってきた高山右近  井上一筒

「こんな近くにある歴史」

高槻は阪急電車で大阪梅田から京都へ向かって15分、
NHK大河に出演中の高槻城城主・高山右近氏がこんな近くにおりました。


  高山右近記念聖堂

キリシタン墓地は「高山右近記念聖堂」から西北西へ
約100m程離れた場所にある。
大人や子供の墓が整然と配置され、
高山右近記念聖堂「二支十字を描いた木棺」などが見つかる。


二支十字を描いた木棺の蓋の墨書


高槻カトリック教会の前庭にあるユスト高山右近之像
これはイタリアの彫刻家ニコラ・アルギイによって彫られた。

テロップが流れ忘れた傘さがす  中川隆充


    野見神社

高山右近は、天正元年(1573)、父・飛騨守とともに「高槻城」に入り、
城の拡張などを行う一方、「キリスト教」を厚く保護。
家臣や領民へ布教を進め、一時、高槻は、
京都・堺と並ぶ近畿でのキリスト教布教の中心であった。
その拠点となったのが天正2年(1574)
城内の現・「野見神社」付近に飛騨守が建てた「天主教会堂」である。

宣教師・ルイス・フロイスの記録によれば、
大きな木造の教会堂と宣教師の宿舎を備え、
池のある美しい庭園の一角には、大十字架が建てられていたという。
神社東方の発掘調査では、教会に隣接していたキリシタン墓地が、
江戸時代の厚さ2メートルに及ぶ盛土の下から発見され。
棺の蓋板に墨書された二支十字や死者にそえられた木製のロザリオは、
発掘資料としては日本最古ものといわれる。

炎天をシャキシャキ崩すかき氷  美馬りゅうこ


  高山右近

「高山右近の生涯」

高山右近は、F・ザビエルによってキリスト教が日本へ伝えられた

3年後の天文21年(1552)に生まれた。

当時は戦国時代のまっただなかで、

右近の父親も小さな領主として戦いに明け暮れていた。

そんな時、彼の父はキリスト教に出会い信仰するようになる。

そして、摂津高山に生まれた右近は、12歳で洗礼を受け、

ジュスト(義人の意)の霊名を受けた。

この洗礼は父、高山飛騨守の意向によるものであった。

飾りボタンは校則が嫌いです  森田律子

この信仰に領主でもある右近に厳しい試練が訪れる。

天正6年(1578)荒木村重信長に謀反を起こすと、

右近は当時主君であった村重への忠誠を示すために、

妹と長男を人質に出して、これを翻意させようと尽力するが、

失敗する。右近26歳のときであった。

一方、信長は右近が自分に降下しなければ、

「宣教師とキリシタンを皆殺しにする」

と脅してきたのである。

悩む右近は城内にあった聖堂に籠り、祈り、

最後は武士を捨てる決心をし、

着物の下に着込んでいた紙の衣一枚で信長の前に下りた。

青に青重ねて深海魚になる  中野六助

こうして信長の下に全てを捨てた右近だったが、事態は好転する。

信長の気まぐれな気分で人質は解放され、

 再び高槻城主として活躍する場が信長によって与えられたのである。

この後、約10年間ほどはキリシタン大名として名実ともに活躍した。

安土城下でセミナリオ(神学校)の設立に尽力し、

高槻の領民の教化に務め、 貧しい人の葬儀の先頭に立つなどして、

キリスト教精神の「愛」を実践した結果、

領民の7割がキリシタンになっていた。

のり代をたっぷりとって受けとめる  笠嶋恵美子

その後、天正15年(1587)7月、突如、

秀吉より「バテレン追放令」が発布される。

棄教を迫られた右近は、

「現世においてはいかなる立場に置かれようと、

   キリシタンをやめはしない。

   霊魂の救済のためには、たとえ乞食となり、

   司祭たちのように追放に処せられようとも、なんら悔いはない」

と答えたため、領土を剥奪され、追放され、流浪の身となる。

ごっくんと飲み干す哀しみの記憶  山口ろっぱ

翌天正16年、加賀の前田利家の招きにより金沢に身を預け、

「南坊」の名で茶道と宣教に没頭した。

慶長17年(1612)、徳川幕府が「キリシタン禁教令」を発布、

続き慶長19年にキリシタン・「国外追放令」が出され、

右近は前田家に迷惑がかかるとし、極寒の中、

京都、坂本、大坂へと歩き、そこから船で長崎に入る。

そこからマニラへ向かい、43日後に到着、

マニラでは、ルソン総督らから大歓迎を受けたが、

苦難の道中と不慣れな南国の風土・食物のために身体を弱め、

到着後40日ほどで熱病にかかり、慶長20年2月3日、

63歳の生涯を閉じた。

野たれ死にしても笑っているつもり  和田洋子


    現代劇場

現代劇場の大ホールはセミナリヨ跡、文化ホールは司祭館跡。

この現代劇場では、毎月の第三木曜日、結社「卯の花」主催の句会が
催されている。ここに参加されている川柳人の皆様は、
「こんな近くにある歴史」を見ましたか。
これより歴史公園に入ってみましょう。

    
公園の入口手前に立つ高槻城に関する説明板と高槻城跡石碑

1573年には高山氏が町屋をも堀で囲いこんだ堅固な城を築城した。
現在の「槻の木高校あたりが高槻城の本丸があった」ところとされ、
槻の木高校の敷地に隣接して「高槻城址」の石碑が建てられている。
その東側の城跡は現在「高槻城跡公園」となっており、
歴史資料館なども整備されている。


   右近説明板

まず、しっかり読んで右近になじみましょう。


    右近像

キリシタン大名の姿で立っている。


城跡公園内の池と復興された天守台

天守があったのはこの場所ではなく、隣接の高校の敷地内にあった。

「城跡公園へ」



城跡公園の奥には日本庭園的な空間がある。
尚、城跡公園横の高校グラウンドは、
戦時中は陸軍工兵第四聯隊の駐屯地だったとのこと。
記念碑が立っている。




高槻城詳細マップに描かれている御殿・天守・門・櫓・堀などは、
残っていないが、「八幡宮」「野見神社」「本行寺」は現存する。


 しろあと歴史館   (入場無料)

歴史観の主な展示品


 高槻城の石垣基礎  右下の3つのみが実際に発掘された石垣石。

その他
キリシタンの遺骸とロザリオ
発掘された鯱瓦
伝右近のチョッキ    
伝右近の笠
高山右近書状    
高山右近手製の茶杓
田原レイマンの墓碑
江戸時代の火縄銃や銃弾
鎌倉時代の刀工「了戒」作と言われる日本刀。
江戸時代のものと思われる兜
                           などなど

 キリシタン墓地跡

高槻商工会議所の敷地内に「天主堂跡」の碑が建てられている。
ここが実際のキリシタンの墓地があった所で、
ここで発掘されたキリシタンの遺骨ロザリオなどは、
城跡公園北側・「しろあと歴史館」で見ることができる。

点描の一つひとつにある宇宙  嶋澤喜八郎

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