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川柳的逍遥 人の世の一家言
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消すことの叶わず燃ゆることも又  時実新子



      津田梅子

女子教育の先駆者。6歳で日本初の女子留学生5名のひとり。

米国で女学校を卒業して11年後に帰国。

華族女学校、女高師教授を歴任後、津田塾大学を創設。

(画像は拡大してご覧下さい)



津田梅子(中央)と女子英学塾の学生たち (明治40年撮影)

「6歳の留学生」

明治4年7月、政府は大規模な海外視察団を編成した。

岩倉具視、大久保利通、伊藤博文以下、政府要人に混じり、

5人の女子留学生が同行した。

その5名とは、上田梯子(16歳)、吉益亮子(14歳)、山川捨松(11歳)

永井繁子(10歳)、津田梅子(6歳11ヶ月)である。

掌を合わせ器が出来上がる  永井玲子

使節団に随行する女子留学生の募集があったのは、

出発のわずかひと月前。

期間は10年。

最初の募集ではひとりの応募もなく、2度目でやっと決まった。

いずれも戊辰戦争において賊軍とされた幕臣や佐幕藩家臣の子女で、

官軍側はひとりもいない。

山川捨松の父は、会津藩家老、

津田梅子の父は、下総国佐倉藩勧定頭の家に生まれ、

10代で江戸に出て蘭学と洋学を学び、

外国奉行通弁(通訳)として幕府に仕えていた。

生きていくため触角を手に入れる  高島啓子



ランマン夫妻(チャールズとアデライン)

同行者の中に当時30歳の伊藤博文がおり、

船酔いに苦しむ彼女たちを慰めて慕われた。

のちに梅子が伊藤邸に家庭教師として住み込み、

教師時代と学校創設時にも協力してくれたのも、

その時の縁があったからである。

梅子吉益亮子は東部ジョージタウンの日本弁務館書記官・ランマン

自邸に預けられ、梅子はそこで10年間を過す。

そこをしばしば訪れて梅子らを激励したのが、

密出国して米国の大学を卒業していた新島襄だった。

踏ん張ってごらん雲は動くから  森田律子

           

   アリス・ベーコン     津田梅子・山川捨松・永井繁子   

ランマン家は開放的な知識階級で夫妻は、

娘のように梅子をいとおしみ、惜しみなく教育してくれた。

年長の二人が体調を崩して帰国し、

捨松、繁子、梅子の3人だけになったが、

捨松と繁子は終生、梅子の頼もしい協力者となってくれた。

梅子が帰国したときには日本語をほとんど忘れており、

日本の風習にも不慣れで違和感をおぼえたという。

ことに上流階級の気風には馴染めず勧められた演壇を断り、

来日していた留学時代の友人・アリス・ベーコンの勧めで、

再度留学を果たす。

(帰国後、華族・平民の別のない女子教育を目指したのは、

 アメリカの自由主義が心底に深く根付いていたからである)

一本の野の花として凛と咲く  森吉留里惠

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観音の手の千本の脈をとる  嶋澤喜八郎

 

                     スイスで記した襄の遺書

「襄ー倒れる」

は、八重との結婚当初から病弱で、ー2

健康に留意しながらの布教活動であった。

明治17年4月から、翌18年12月にかけて、襄は欧米を外遊する。

ところが明治17年8月6日、

襄はイタリアからスイスへ至るサンゴタール峠で心臓発作を起こし、

呼吸困難となり山頂の旅館で二通の遺書を認めている。

作家の徳富蘆花は、『黒い眼と茶色の目』の中で、

「自分(襄)はその時非常に苦しんだ。諸君のことを思い、妻のことを思い」

と書いており、

襄が自身の病よりも生徒と八重のことを気に掛けていたことが分かる。

実際、八重は絶えず襄の体を気遣う毎日であった。

襄が旅行をする際もできるだけ付き添って看護をしていた。

落葉の季節遺言書を書かす  小林満寿夫  

そして前年に父を亡くした心労もあったのか、

明治21年の4月、襄が井上馨邸で倒れる。

医師より、倒れた襄の病が、全治不可能な心臓病、

「今のうちに大事なことは聞いておくように」

と言われた八重は、大きな衝撃を受けた。

自宅療養だが、襄も余命を自覚していたようで、

八重の身の振り方や、学校の将来など万一に備えて手を打った。

本日の渦へ入って渦を出る  筒井祥文



心配でならない八重は、襄が寝ている間、

きちんと息をしているか襄の口元に手をかざし、

気付いた襄が、八重に言う。

「八重さん、わたしはまだ死なぬよ。あなたがあまりに心配して寝ないで、

  私より先に死んだら大困りだから、安心して寝なさい」

八重の『亡愛夫襄発病の覚』 には、
    わたし                あるとき
(「妾は、日夜の看病に疲労し、或時は亡夫の目覚め居れるを知らずして、
                   その                
 寝息を伺はんと手を出せば、其手を捕へ、

 『八重さん未だ死なぬよ、安心して寝よ』
                         なんじ
 余りに心配をなして寝ないと、我より先に汝が死すかも知れず。
  さよう
 左様なれば我が大困りだから安眠せよ。と度々申したり」

と記されている。

傍観者のかたちで一度目は通過  たむらあきこ



そんな状況でも、襄は募金活動だけは病の身を押して行った。

募金活動で東京、そして明治22年11月、

群馬県前橋市で遊説していた襄が腹部の激痛に襲われ東京に引き返す。

診断は胃腸カタルであった。

この知らせを受けた八重は、直ぐにでも現地へ駆けつけようとしたが、

「病気で寝ている母親を看病して欲しい」

という襄の願いを受け入れ京都に残った。

余命幾ばくもない襄でも、

残される母・とみのことが気がかりでならなかった。

一画で0から9を書くへんこ  清水久美子

 

新島襄終焉の地(旅館百足屋跡)

明治22年12月、東京で静養していた襄は、

医師や蘇峰に温暖な地での休養を勧められると、

大磯海岸にほど近い百足屋旅館で静養の日々を送ることにした。

この大磯での静養中に八重は、重ねて看病を願い出るが、

やはり襄は病気がちな老母の「看病こそが大事」

配慮の言葉を八重に返している。

明治23年の正月を襄は、百足屋旅館の離れ座敷で迎えたが、

1月17日、襄の容態は急変する。

診断を終えた医師は、

「呼びたい方がいれば、今のうちに呼んでください」

と襄に告げた。

ブラックホールの傍にインターホンがある  岩田多佳子

襄に残された時間はわずかであった。

側に居た者が八重に電報を打とうとするが、襄が制した。

自分よりも、年老いた母親・とみの看病を優先して欲しかったからだ。

1月19日、弱っていく襄を心配した永岡喜八が、

八重に襄の危篤を知らせる。

八重が百足屋に駆けつけたのは、1月20日の夜だった。

既に襄は憔悴しきっていた。

八重を見た襄は、

「これほど八重さんに会いたいと思ったことは無かった」 と喜んだ。

これを聞いた八重は、

「何という暖かいお言葉。私は死んでも、来世でも忘れません」

と涙を流した。

ダリの絵のぐにゃりがとてもやさしい日  岩根彰子

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別れ歌歌うライオン橋のライオン  くんじろう

 
    徳冨蘇峰旧邸と蘇峰

「徳富蘇峰と徳冨蘆花」

徳富猪一郎(蘇峰)は新聞記者であり、歴史家、言論人。

文久3年(1863)1月25日熊本に生まれ、熊本洋学校から同志社に学ぶ、

が、明治13年、新島襄と衝突し,退学。

故郷に帰り,自由民権運動のかたわら、明治15年大江義塾を開く。

19年塾を閉鎖し上京、『将来之日本』を刊行し、

新進評論家として注目を集める。

20年「民友社」を設立、雑誌・『国民之友』を創刊、

青年層を中心に圧倒的支持を得る。

23年「国民之友」・「国民新聞」を創刊し日本言論界に不動の地位を築く。

この樽を出ると立派な酒になる  山本芳男

 
      徳冨蘆花の本

徳冨健次郎(蘆花)は小説家。

明治元年10月25日生まれで、兄・蘇峰とは5歳の年の差。

名作「不如帰」・「自然と人生」で文壇の異色作家として注目を浴びる。

ともに京都の同志社で学ぶが、

蘇峰、蘆花、この兄弟の不和は歴史上あまりに有名

ともかく二人の思想・活動は異なり、

とりわけ蘆花は蘇峰に一方的な葛藤と顕著な劣等感を抱いていた。

ひとりごとだけが出てくるボイスレコ  黒田忠昭

「蘆花の劣等感」-エピソード」

徳冨の名の兄・蘇峰は「富」(うかんむり)で、

蘆花は、わかんむりの「冨」の字で晩年まで冨で通した。

背景に、「蘇峰の富と区別したい、という気持ちがあったのは確か」

と蘆花文学館館長。

号に関して、蘇峰は故郷・熊本の名峰「阿蘇山」から取った雄大なもので、

蘆花は地味な「蘆の花」

「『蘆の花は見所とてもなく』と清少納言は書きぬ。
 しか
 然も其の見所なきを余は却って愛するなり」 

と随筆に記している。

粘りつく入道雲を背負い投げ  山田ゆみ葉

 
            蘇峰旧邸

「和解」ー「蘆花臨終の日まで続いた二人の断絶状態」

蘆花は、5歳年上の兄・蘇峰へ「告別の辞」を発表して絶交。

明治36年のことである。

何かにつけて兄に反発していた蘆花だが、

明治43年に一度、大逆事件の幸徳秋水らの減刑を願う、

桂太郎首相への嘆願書提出に蘇峰を頼った。

この嘆願は果たせず、

これ以後も兄弟のあいだには疎遠な状態がつづいた。

その後、14年続いた疎遠の二人が劇的な和解を果たすのは、

昭和2年、蘆花が群馬県伊香保で病床に就いたときである。

※ 大逆事件ー社会主義者・幸徳秋水らが、明治天皇暗殺計画を企てたとして、

     検挙された事件


わたくしの天使の羽根が生え換わる  蟹口和枝


      徳冨蘆花

病床の蘆花を見舞いに来た蘇峰が 「おまえは日本一の弟だ」 

と話しかけると、

蘆花は 「兄貴こそ日本一だ。どうかいままでのことは水に流してくれ」

と泣きながら訴え、

そして兄に

「後のことは頼む」

と言い残し逝ったといわれる 。

蘆花、58歳だった。

ありがとうを言う汽笛になりながら  八上桐子

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セロテープ千切れば朝のナイル川  井上一筒

 
        徳冨蘆花

『黒い眼と茶色の眼』

「黒い眼と茶色の眼」は、徳冨蘆花が18歳の頃の苦い恋の体験を、

46歳のときに、描いた小説である。

28年の時を経て小説にしたところに、蘆花の根にあるものをみる。

さて、徳冨健次郎(蘆花)は、2度同志社で学んでいる。

1度目は明治11年から13年まで、2度目は明治19年から20年まで、

そのとき、18歳だった。

このときに健次郎は、15歳の山本覚馬の娘・久栄と恋をする。

路面電車が綿毛の中を出て往った  岩根彰子

小説の舞台は主に京都と東京。

時は明治19年から2年間。

そこに同志社を創った歴史上の人物が多く登場する。

名前は、実在の人物と微妙に変えてある。

新島襄は憂いに満ちた優しい黒い眼をした飯島先生として、

八重多恵という名で出てくる。
                   ひさよ
茶色の鋭い眼をした女学生は寿代の名で、久栄

主人公にあたる健次郎は、敬二というように。

そして、健次郎の従兄弟・横井時雄は、又雄という名になっている。

京都府を剥して沖縄県に貼る  兵頭全郎



「物語概略」
 
時は夏休み、京都にいる又雄を訪ねてやってきた敬二が、

梨木神社筋向いの東桜町にある又雄の屋敷で初めて、

寿代という女学生と出会うところから物語は始まる。

その後、又雄は、木屋町三条上ル東側に移るが、

近くの河原町に、寿代が父親と住んでいる家があり、

色々な祭事や緒用などがあって、

敬二と寿代の二人が顔を合わす機会が増えていく。

そして、しだいに敬二は寿代に惹かれていく。

ここまでは水玉ここからは谺  赤松ますみ

やがてクリスマスが過ぎ、ある日、熊本から来ていた従兄弟の次平が、

敬二に、「寿代は、あゝたに恋しとる…どうすったいな」 という。

敬二は寿代の気持を知り、

「吾が未来の妻」、「君が将来の夫」と書いた手紙を寿代に送った。

ところがこの手紙の一件が、又雄や飯島先生に知れるや、

「皆、怒っている」、という噂が伝わってくる。

そこで敬二は寿代を南禅寺に呼び出す。

やがて三門に人力車が止まり、

紫の袴に空色の洋傘を開いて寿代が降りてくる。

二人は天授庵の庭に入り、そこで敬二は別れ話を切り出すつもりでいた。

大騒ぎただれた月の後始末  酒井かがり

そこへ突然、又雄が寺にやってきて、二人を見つけると、

「なんという不都合な…

 妙令の女子を誘って野外において密会したることはよくない」 

と叱りだす。

「成業後なおその感情に変りなくば別問題であるが、

  今日の所為の如きは、全然論外である」 

と言うのだ。

敬二は熟考の末、寿代さんには、

「彼女から来た手紙を返し、彼女からは自分の手紙を返してもらいます」

と無条件に白旗を揚げた。

白線はむごい逢うのに許可がいる  武智三成

 
          蘆花文学館

しかし、敬二は同じことを二回くりかえす。

一度は二人で梨木神社の東側のまん中の寺で会い、

寿代に、「プロミスをリストアする」、つまり約束を復活させる旨を伝える。

また又雄に叱られる。

「リーズン(理性)をもってパッション(情念)に打ち克つでなけりゃいかん」

敬二は、素直にこの忠告を受け入れた。

もう一度は、

敬二が夏休みになって東京に移っていた両親のもとに出かけた時のこと。

兄も近くに事務所をかまえている。

隣の霊南坂教会には、小﨑弘道が牧師をしており、

本郷教会には海老名弾正がいた。

敬二は寿代に手紙を書く。

「あゝなんの日か、おん身を手をたずさえてこの游をなすを得んや」

そして、「君が至親の夫」とつけ加えて投函した。

私の庭で熟していく童話  合田瑠美子

そこへ旧友を訪ね又雄が上京、友とは歓談するが敬二に対しては、

「あんたまた詐うそを云いなはったな」 と叱った。

京都へ帰って敬二は、いよいよ「破約」を決意する。

「清滝へ行って静かに考えます」

しかし学業が手につかず、旅館の支払、送金の遅れ、金策、借金、

月謝滞納、処分の警告など、難題が次々やってくる。

学業の遅れと落第の恐怖、

相国寺で見た首つり自殺をしていた男の想起などなど、敬二を襲う。

青蜥蜴こころ閉じたり開いたり  嶋澤喜八郎

彼は飯島先生にも失望されたと思い、先生に遺書を書き置きし、

京都を脱出。

あてもなく、ただ西に向かい、古い自分の死と、

新しい自分の生を求めて旅に出る・・・・。

というところで物語は終っている。

エピローグのページがあって、その後、何年かして飯島先生が亡くなり、

寿代の父も亡くなり、続いて寿代も病死した。

「茶色の目は23才で眠った」 と、

淡々と、しかし紙背に反省と悔悟の念をこめて、綴られている。

風ラララそちらは掃除用具入れ  筒井祥文

 
神戸女子大・成瀬記念講堂
 
『黒い眼と茶色の眼』の暗号ー解説

                 児玉実英 (同志社女子大学名誉教授・元本学学長)

敬二は又雄さんに3度ウソをつきました。

これはペテロが、鶏が鳴くまでに3度主を裏切るルカによる福音書の場面を

踏まえていると思われます。

それから寿代は、

「紫の袴に空色の洋傘」をさしてしばしば敬二の前に現れますが、

青い色はマリアの色です。

また敬二と寿代や又雄さんの間に立って、

敬二に強い不信感を抱かせてしまう次平は、

最終的には和解するのですが、ユダのイメージと重なっています。

逆光の銀杏飴さん持ってます  藤本鈴菜

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焼けあとにもきっとやさしい芽は出よう  森中惠美子



      若松賤子

明治期の翻訳家。本名松川甲子(かし)。通称・島田嘉志(かし)

会津若松市の生れ。

「会津の女」⑥-若松賤子

戦争によって犠牲を強いられるのは、

つねに女性や子どもたちである。

新政府軍が会津若松城下に侵入してきた日の朝、
                 わかまつ しずこ
わずか5歳だった若松賤子(巌本嘉志子)は、

身重の母や祖母とともに戦火のなかを逃げた。

すでに城門が閉ざされて、入城することが出来なかったのだ。

軟風5ノット地図は砂丘を攻め落す  山口ろっぱ

入城を告げる割場の鐘の鳴るのが遅れたため、

城にかけつけても閉めだされた家族は、

やむなく若松郊外の農山村に避難するしかなかった。

はじめから避難した家族も含めて、

その数は一万人を超えていたと推定されている。

賤子の母は逃避行のさなかに妹・みやを産んだ。

乳飲み子を抱えて着の身着のままで山野をさまよい、

飢えをしのぐ日々がつづいた。

コチコチコチ時間は知らん顔である  太下和子

敗戦後、賤子たちがどこでどう暮らしていたのか、

その手がかりすらなく、賤子の母が明治3年に、

28歳で死去したと伝えられるだけである。

おそらく困窮と疲労から病死したのだろう。

父の行方も知れず、孤児同然となった賤子は、

横浜で貿易商山城屋の番頭をしていた

大川甚兵衛に引き取られる。

その時間には沈黙を手向ける  居谷真理子



フェリス女学院第一回から五回までの高等科卒業生。

前列中央が賤子。18歳で卒業した賤子は、母校で和文の教師を務めた。

その後、開校まもない「フェリス・セミナリー」(フェリス和英女学校)に入学。

13歳で洗礼をうけ、西洋的教養を身につけた知的な女性に成長する。

外人宣教師の訓育下に明治15年フェリス女学校高等科を卒業。

卒業後、母校の教壇に立つ。

この教師時代に文学部をつくって執筆活動をはじめる。

筆名の若松は「故郷の会津」にちなみ、

賤子は「神のしもべ」という意味である。

明治22年、明治女学校の巌本善治と結婚。

結婚後は明治女学校で教鞭をとるかたわら、

次々と児童文学の創作と翻訳を発表。

なかでも、アメリカのバーネット女史の『小公子』の翻訳は、

平易で美しい言文一致の文体で候文からの脱却を模索していた、

坪内逍遥、樋口一葉ら当時の文壇に多大な影響を与え、

長く読み継がれた。

四コマまんがのその先にある目覚め  服部文子

「われわれはきみのものならず、私は私のもの、夫のものではない。

  あなたが成長することを忘れたら、

  私はあなたを置き去りにして飛んで行く。

  私の白いベールの下にあるこの翼を見よ」

結婚式で賤子が夫・巌本善治に送った訳詩である。

まだ女性の社会的地位が低い封建的な時代、

賤子が自立意識と気概に満ち溢れていたことがうかがえる。

明治22年、明治女学校の巌本善治と結婚して教師をやめたが、

語学力を生かして、名作・『小公子』をはじめ、

多くの翻訳から創作を世に送った。

運のないさざなみばかりでもなくて  中村幸彦

翻案小説・《忘れ形見》1890

テニソンの物語詩の翻訳・《イナック・アーデン物語》ー1890

90年から92年には《小公子》(バーネット原作)の翻訳など,

いずれも子供の姿態を清新な口語体でとらえ,

彼女の仕事の頂点を示している。

明治16年ころ、肺結核を病いに犯される。

医療もままならず家事と育児と執筆の中で、病は進んだ。

明治29年2月、明治女学校が炎上した5日後に、

心臓麻痺にて没する。 享年32歳であった。

凶のみくじはコヨリにしておこう  山本昌乃

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