忍者ブログ
川柳的逍遥 人の世の一家言
[409] [410] [408] [407] [406] [395] [405] [403] [404] [402] [401]
焼けあとにもきっとやさしい芽は出よう  森中惠美子



      若松賤子

明治期の翻訳家。本名松川甲子(かし)。通称・島田嘉志(かし)

会津若松市の生れ。

「会津の女」⑥-若松賤子

戦争によって犠牲を強いられるのは、

つねに女性や子どもたちである。

新政府軍が会津若松城下に侵入してきた日の朝、
                 わかまつ しずこ
わずか5歳だった若松賤子(巌本嘉志子)は、

身重の母や祖母とともに戦火のなかを逃げた。

すでに城門が閉ざされて、入城することが出来なかったのだ。

軟風5ノット地図は砂丘を攻め落す  山口ろっぱ

入城を告げる割場の鐘の鳴るのが遅れたため、

城にかけつけても閉めだされた家族は、

やむなく若松郊外の農山村に避難するしかなかった。

はじめから避難した家族も含めて、

その数は一万人を超えていたと推定されている。

賤子の母は逃避行のさなかに妹・みやを産んだ。

乳飲み子を抱えて着の身着のままで山野をさまよい、

飢えをしのぐ日々がつづいた。

コチコチコチ時間は知らん顔である  太下和子

敗戦後、賤子たちがどこでどう暮らしていたのか、

その手がかりすらなく、賤子の母が明治3年に、

28歳で死去したと伝えられるだけである。

おそらく困窮と疲労から病死したのだろう。

父の行方も知れず、孤児同然となった賤子は、

横浜で貿易商山城屋の番頭をしていた

大川甚兵衛に引き取られる。

その時間には沈黙を手向ける  居谷真理子



フェリス女学院第一回から五回までの高等科卒業生。

前列中央が賤子。18歳で卒業した賤子は、母校で和文の教師を務めた。

その後、開校まもない「フェリス・セミナリー」(フェリス和英女学校)に入学。

13歳で洗礼をうけ、西洋的教養を身につけた知的な女性に成長する。

外人宣教師の訓育下に明治15年フェリス女学校高等科を卒業。

卒業後、母校の教壇に立つ。

この教師時代に文学部をつくって執筆活動をはじめる。

筆名の若松は「故郷の会津」にちなみ、

賤子は「神のしもべ」という意味である。

明治22年、明治女学校の巌本善治と結婚。

結婚後は明治女学校で教鞭をとるかたわら、

次々と児童文学の創作と翻訳を発表。

なかでも、アメリカのバーネット女史の『小公子』の翻訳は、

平易で美しい言文一致の文体で候文からの脱却を模索していた、

坪内逍遥、樋口一葉ら当時の文壇に多大な影響を与え、

長く読み継がれた。

四コマまんがのその先にある目覚め  服部文子

「われわれはきみのものならず、私は私のもの、夫のものではない。

  あなたが成長することを忘れたら、

  私はあなたを置き去りにして飛んで行く。

  私の白いベールの下にあるこの翼を見よ」

結婚式で賤子が夫・巌本善治に送った訳詩である。

まだ女性の社会的地位が低い封建的な時代、

賤子が自立意識と気概に満ち溢れていたことがうかがえる。

明治22年、明治女学校の巌本善治と結婚して教師をやめたが、

語学力を生かして、名作・『小公子』をはじめ、

多くの翻訳から創作を世に送った。

運のないさざなみばかりでもなくて  中村幸彦

翻案小説・《忘れ形見》1890

テニソンの物語詩の翻訳・《イナック・アーデン物語》ー1890

90年から92年には《小公子》(バーネット原作)の翻訳など,

いずれも子供の姿態を清新な口語体でとらえ,

彼女の仕事の頂点を示している。

明治16年ころ、肺結核を病いに犯される。

医療もままならず家事と育児と執筆の中で、病は進んだ。

明治29年2月、明治女学校が炎上した5日後に、

心臓麻痺にて没する。 享年32歳であった。

凶のみくじはコヨリにしておこう  山本昌乃

拍手[4回]

PR


Copyright (C) 2005-2006 SAMURAI-FACTORY ALL RIGHTS RESERVED.
忍者ブログ [PR]
カウンター



1日1回、応援のクリックをお願いします♪





プロフィール
HN:
茶助
性別:
非公開