ロンパリ!考える椅子
川柳的逍遥 人の世の一家言
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安徳誕生
今朝一つピラカンサスの実がはじけ 河村啓子
「平家物語」(御産の事)
徳子の皇子誕生。
御簾から顔を出し皇子出産を喜ぶ後白河法皇の言葉に、
思わず泣いてしまった清盛。
(画面は拡大してご覧ください)
点滅にいよよ華やぐ膝頭 酒井かがり
「1178年」
治承2年
(1178)
11月12日、
高倉天皇
と
徳子
の間に、
清盛
念願の男子が生まれた。
のちの
安徳天皇
である。
皇子の無事の生誕を見届けた清盛は、
11月16日に京から福原に戻っていった。
しかし、京で廷臣達が、皇子の立坊の儀
(皇太子になる儀式)
を、
2~3歳の先例が不吉なので、
1歳の時に行うか、4歳で行うかで意見調整していると、
清盛は急遽26日夕方に京に上洛した。
もう少しわくわくせよと山笑う 新家完司
妙順寺(京都市東山区)安徳天皇産湯の井戸
当時の年齢は、産まれたときに1歳で、
正月毎に歳をとる数え年で計算するため、
皇子は生まれた次ぎの年に2歳になる。
1歳で立坊するのであれば、残り2ヶ月をきっているが、
上洛した清盛の意向が影響して、
皇子は1歳の時に立坊することに決まった。
決まったが四十八手にない決め手 松井富美代
安徳天皇(泉湧寺)
皇子は12月8日に親王となり、
言仁
と名付けられた。
同日、近侍する者を任命する
「侍始の儀」
も行われた。
こうして12月15日に
言仁親王
(安徳天皇)
は、
生後1ヶ月あまりで皇太子となった。
満ちて今影の形を整える 上田 仁
「武者鑑ー源三位頼政」
「源頼政が従三位に出世する」
さて、治承2年
(1178)
12月24日に摂津の
源頼政
が、
「従三位」
に任じられた。
清盛一門を別とすれば、
公卿としての待遇を得る従三位が武士として、
きわめて高い位階であることは言うなでもなく、
頼政の父祖で、三位に昇進できた者もいない。
家格からすれば分相応な昇叙に、
貴族たちは大いに驚いたが、
それは清盛の奏請によるものであった。
木星へビオラの弦を張りにゆく くんじろう
清盛の奏請の状には、
「源氏と平氏は我国の堅めである。
平氏は、朝恩がすでに一族に広く行き渡り、
威勢が天下に満ちているが、これは勲功によるものだ。
一方、源氏の勇士は、多くの者が逆賊に味方し、全て罰を受けた。
頼政はひとりだけ正直で、勇名が世に知られているが、
いまだ三品に昇進していない。
すでに70歳余の年齢で、かわいそうである。
しかも、近日は重病だということだ。
黄泉に趣く前に、特に紫綬の恩を授けよう」
とあったという。
青以上に青い君のアンビシャス 和田洋子
朝廷を守護する武力の第一人者となり、
さらには将来の天皇となる孫が生まれ、
得意の絶頂であった清盛の様子が窺える。
安徳誕生の喜びに満ち溢れた清盛の内祝というべき、
推挙である。
頂点のあたりで赤ん坊が叫ぶ 湊 圭史
「安徳天皇誕生の様子」
「清盛の政治構想」
安徳天皇
が誕生し一歳で皇太子となり、
後白河院
との対立が明白なものとなった
清盛
は、
後白河院の代わりとなる政治体制を発足させようとした。
より具体的にいうと、
高倉天皇を王家の家長とし、
「治天の君」
とすることを考えていた。
高倉天皇
の子が天皇となり、
上皇となった高倉院が院政を敷き、
それを清盛が誘導するというのが理想形であった。
蓮根の穴になれたらしめたもの 森田律子
「1179年」
「摂関家領をめぐる後白河院方の介入」
治承3年
(1179)
6月17日、清盛の娘・
盛子
が没する。
享年24歳。
盛子は、摂政・
藤原基実
の室であり、
基実没後は、その遺領たる摂関家領を継承していた。
永万2年
(1166)
の基実の急死により、
藤原基房が摂政に就任し、氏長者に相続される興福寺や、
方上荘などの殿下渡領を伝領したものの、
基実の遺領の大半は、
後家の盛子が伝領していたのである。
幕が開きいきなり雪が舞いしきる 嶋澤喜八郎
当時11歳の盛子が伝領した摂関家領が、
実質的に清盛の支配下にあったことは言うまでもない。
亡くなった盛子の遺領は、高倉天皇が伝領した。
この措置は、
盛子が高倉天皇の准母であったことに基づき、
盛子の遺領となった摂関家領を、
高倉天皇が伝領することで、
平氏による実質的支配の継続を狙っていた。
≪准母=天皇の生母ではないが、母に擬して優遇するための待遇≫
断捨離をそのまま持ってお引越し 森中惠美子
それに対して、藤原基房と後白河院は結託して、
摂関家領の奪取を企てた。
摂政となった藤原基房は、
盛子の没時に
「一ノ所ノ家領文書」
の
伝領を後白河院に申請した。
基房にしてみれば、基実の死去時に、
その遺領の大半を獲得できず、
清盛の娘・盛子に押領されたも同然であった。
しかも嘉応2年
(1170)
の所謂
「殿下乗合事件」
でも、
平重盛の逆恨みを受けるなど、平氏との対立もあった。
目立たないように白旗上げている 高橋謡々
基房の摂政就任・摂関家領奪取の野心は、
平氏に対する恨みと連結していたのである。
後白河院は、高倉天皇領となった盛子の遺領の年貢を、
実質的に管理しようとして、
白河殿倉預に近臣の
藤原兼盛
を補任した。
10月8日には、基房の三男・
師家
が従三位に叙され、
10月9日には、
従二位右中将で20歳の
藤原基通
をさしおいて、
師家が僅か8歳で権中納言に補任された。
師家が将来の摂関となり、
摂関家領を伝領する予定であることが、
明示されたのである。
埴輪のような目にしてもらう手術 井上一筒
さらに同じ10月9日の除目で、
後白河院は、
平維盛
の知行国であり、
通盛
が国守をつとめる越前を、
清盛に断りなく没収して、院分国とし、
院近臣・
藤原季能
を国守としてしまった。
これら摂関家領への介入、
師家の任権中納言、越前没収といった諸問題を、
主たる動因として、
清盛は政変を決断することとなる。
辛抱の箍がはずれてくる夕日 たむらあきこ
[4回]
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y2012/11/11 09:30 z
CATEGORY[ポエム&川柳]
鹿ヶ谷・流人たちの事
かさかさと骨の崩るる日を思う 森中惠美子
無情の船を追いかける俊寛像
「鹿ヶ谷事件 流人たちのその後」
「鹿ヶ谷事件」
において、
清盛
が、
西光
とともに首謀者と目していたのが
藤原成親
である。
平治の乱のとき、妹が
藤原信頼
の妻であった
関係から謀反に加担したが、
同じく妹婿である
重盛
のとりなしにより命を救われた。
その後は、『愚管抄』に
「院ノオトコノオボへ」
と、
紹介されているように法皇と男色関係を結ぶことで、
西光とならぶ法皇の寵臣にのしあがった。
そこはかと変ではないか香を焚く 山本昌乃
清盛に呼び出された成親は、
平盛俊
という屈強な武者によって押し込められたうえで、
備前に配流され、一週間ばかり食事も与えられず、
最後は酒を飲まされて殺害された。
『平家物語』
によると、毒入りの酒をすすめられたが
用心して飲まなかったので、崖から突き落とされ、
下にうえられた尖った菱に貫かれて死んだという。
≪平治の乱の際、重盛の縁故によって助命されながら、
なお平家にたてつこうとした成親の忘恩を、
清盛は許すことができなかったのだろう≫
蝶になれないさなぎの悔いを懐に 杉浦多津子
鬼界ヶ島に流された
俊寛、平康頼、藤原成親
は、
成経
の妻の父である
平教盛
のはからいで、
教盛が所有する肥前の荘園からの仕送りで、
命をつないでいた。
康頼と成経は、島のあちこちを熊野三山に見立てて、
日々巡礼を怠らなかったが、
僧侶でありながら、信仰心の薄い
俊寛
は、
加わらなかったという。
マヨネーズあれば何も怖くない 森田律子
また、康頼と成経はそれぞれの名前と帰京の願いを込めた
「和歌を書いた千本の卒塔婆」
をつくって海に流した。
やがてそのうちの一本が、
安芸の厳島に流れ着いたことから
都で評判となり、それを聞いた清盛も哀れに思ったと
『平家物語』は伝えている。
秋の真ん中辺で変換キーを押す 笠嶋恵美子
やがて、
徳子
の出産による恩赦によって、
鹿ヶ谷事件の流人たちも召し返されることになったが、
なぜか、俊寛だけは赦免からもれた。
俊寛は、
「われら三人は罪も同じ、配所も一つところなのに、
なぜ私ひとりが残らねばならないのだ」
といって取り乱すが、船は無情にも沖へ漕ぎ出していく。
俊寛が去っていく船を追いかけ、
母を慕う子どものように足摺りしながら、
「これ乗せていけ、具していけ」
といって叫ぶ場面は、
平家物語屈指の名場面として知られている。
坂道を阿闍梨の湯気が駆け下りる くんじろう
物語によると、俊寛が赦免からもれたのは、
謀議の場所を提供した俊寛に対する、
清盛の怒りが、大きかったからであるという。
が、真相は不明である。
あるいは恩赦が出た時、
すでに俊寛は死亡していたのかもしれない。
京に帰った成経は許されて、公卿にまで昇進、
配流に先だち出家していた康頼は、東山に隠棲して、
『宝物集』
という仏教説話集を書いて後世に名を残した。
丑三つ刻になると深爪痛み出す 美馬りゅうこ
平家転覆を謀り、鬼界ヶ島に流された康頼の卒塔婆
その内、1本がここ宮島に流れ着き、老母、妻子の元に届けられた。
老母達の嘆きが法皇にも伝わり嘆かれ又、
清盛にも伝わり哀れんだという。
取り残された俊寛のその後は不明だが、
平家物語によると、
俊寛が長年召し使っていた
有王
という童が、
鬼界ヶ島におもむき、
やつれ果てた俊寛と対面し最期をみとったという。
≪鬼界ヶ島に比定されている硫黄島には、
俊寛堂や船を追いかける
俊寛像
が、厳島神社には、
康頼の卒塔婆が流れ着いたという
卒塔婆石
が残されている≫
秋冷をかこつ深夜のにごり酒 本多洋子
「もう一つの鹿ヶ谷」
もう一つ、鹿ヶ谷事件においてよく知られているエピソードに
重盛の「教訓状」がある。
後白河が謀議に加担していることを知った清盛が、
法皇を幽閉しようとするが、
重盛に諫められて、思いとどまるというものである。
しかし、鹿ヶ谷事件の時点で、
清盛に法皇を幽閉する考えはなかった。
後白河の命令で、
比叡山攻撃を了承せざる得なかったことをみても、
清盛が依然として、
法皇を治天の君として尊重していたことがわかるし、
院近臣の処分についても、
西光と成親以外は、後白河の許可を得たうえで、
処罰を進めており、ことさら法皇の反発をあおることがないよう
配慮しているのである。
月朧そこでちょいちょいロバになる 山口ろっぱ
清盛としては、
「治天の君」
が不在になることで、
院政が継続不可能になることを避けたかったのだろう。
法皇の幽閉は、重盛の聖人君子ぶりを強調することで
清盛の横暴を際立たせようとする、
平家物語の創作とみてよい。
そもそも、重盛は成親の妹を妻にしている弱味があり、
清盛に意見できるような立場ではなかった。
≪平家物語の「鹿ヶ谷事件」は史実にあう部分も多いため
歴史的事実として受け止められることが多いが、
平家のおごりや清盛の横暴を際立たせるための演出が,
多分に盛り込まれている≫
解熱剤だけは防潮堤を越え 井上一筒
これにより反平家勢力の台頭は抑えられたが、
その一方、代償も大きかった。
まず、後白河との関係がさらに悪化したことは痛手であった。
また、処罰された近臣の中には、
平家と縁戚関係を結んでいる者も多かった。
藤原成親の妹は、
重盛
の妻、
維盛の妻も、
成親
の娘であり、
藤原成経は、
教盛
の娘婿、
俊寛の姉妹は
頼盛
の妻であった。
事件直後、重盛が左大臣を辞任しているのは、
成親に対する処分に対して、
清盛に抗議する意図もあったのだろう。
事件は平家一門の内部にも、しこりを残す結果となった。
あなたとの間合い枯葉が舞っている 桑名知華子
[2回]
y2012/11/08 09:35 z
CATEGORY[ポエム&川柳]
頼朝と文覚
退屈を煮込んだ旨い塩昆布 杉本柾子
袈裟御前宅に忍び込む盛遠
同僚の妻であり、血縁筋にもある
袈裟御前
に横恋慕し
た遠藤盛遠
は、
「私と一緒になりたければ、
今夜、寝静まった頃に寝所に押し入って、夫を殺して下され」
といわれ、夜も更けたころ袈裟の夫の寝所に忍び込み、
すっかり寝入っている様子の布団に太刀を突き立てました。
確かな手応えがあって、夫は血吹雪の中に息絶えたと思われました。
ところが、手に持ったそのを首確かめると、月明かりが照らし出しのは、
夫ではなく袈裟御前の首だったのです。
このような数々の罪を重ねて盛遠は出家して文覚となのります。
線の通り歩くと三途の川がある 田中博造
「頼朝と文覚」
平治の乱に初陣して敗れ、伊豆蛭ヶ島に流された
源頼朝
。
頼朝はそこで20年間という長い期間をすごし、
1180年に平氏討伐を目標に掲げ挙兵。
その挙兵の影には、ひとりの僧の存在があった。
空色の封筒で来る督促状 増田えんじぇる
文 覚
その僧とは、真言宗の僧・
文覚
。
彼はもともと殿様の雑役を務める侍だった。
そして出家後には、
全国の山や寺で修業や荒行をこなしてきたという。
このような特異な生き方からか、
文覚は不思議な説得力を備えた修験僧として、
知られるようになる。
その文覚が頼朝と出会ったのは、
伊豆に流されたときのこと。
文覚は神護寺再興を後白河上皇に強要したために、
伊豆に流されていた。
踝に鼻すりつけて旅なかば 酒井かがり
文覚はそこで平家打倒の挙兵を強く頼朝に促す。
これほど文覚が平家打倒を訴えたのには、
その時代の
"国家仏教"
の時代背景が窺える。
当時、文覚は、
「仏法と政治は結びあうことで互いに栄える」
という思想を持っており、
法皇の仏教に対する信仰も篤かったのだが、
清盛がその法皇を幽閉してしまったために、
文覚にとって、平家は仏敵だったのだ。
煮て焼いて振り掛けにする言掛り 岩根彰子
頼朝に出会った文覚は、
懐から白い布に包まれた
"ある物"
を取り出した。
それはなんと頼朝の父・
義朝
のドクロだった。
文覚は、
「あなたの父の頭です。
これを首にかけてずっと山や寺で修業してきました。
義朝公はあなたが立ち上がるのを願っております」、
といい、
「あなたの流罪の許しをお願い申し出て、院宣を頂戴してきます」
と言い残して、京都との間をわずか7日間で往復して、
法皇の院宣を持ち帰ったといわれている。
広目天なら体温をあずけよう 森中惠美子
[5回]
y2012/11/04 09:30 z
CATEGORY[ポエム&川柳]
清盛と重盛の溝
前略アイウエオ 早々にてナダレ 山口ろっぱ
平安後期の保元2年
(1157)
都では疫病が流行していた。
地蔵尊像を深く信仰されていた後白河天皇は、
皇位長久・王城守護、さらに広く庶民に疫病退散、福徳招来。
また都を往来する旅人たちの路上安全・健康を祈願のため、
都の出入り口に、
地蔵菩薩を祀るよう
平清盛
に勅命。
清盛は
西光法師
に命じ街道の入口に「六角堂」を建て、
一体づつ分置し
「廻り地蔵」
と名付けた
「鹿ヶ谷事件を機に深まる溝」
重盛
は人格、見識、立ち居振る舞いに関しては
理想的な貴族であり、周囲の尊敬を集めた。
清盛
をいさめるようなこともあったであろうが、
清盛や平家の利益と対立していたわけではなかった。
「嘉応の強訴」
では、
後白河
による比叡山への攻撃命令を何度も拒み、
わざわざ福原まで赴いて清盛の指示をあおいでいる。
赤とんぼ赤信号にとまらない 嶋澤喜八郎
承安2年
(1172)
に、重盛の家人が春日社の神官を殺害し
「興福寺の強訴」
をま招いた際も、
重盛は家人をかばいとおした。
理非をわきまえた君子というわけではなかったが、
そのような重盛だからこそ、清盛は、
平家の将来を頼むに足りる人物と見込んだのだろう。
清盛は、父への諫言をいとわない重盛の態度を苦々しく思う
一方、他のどの子どもにも示さない愛情や信頼を寄せた。
割り切ってみればさっぱりした虹に 谷垣郁郎
しかし、いつしか父・清盛との溝は大きくなっていった。
父への不信を募らせる契機となったのは、
「鹿ケ谷事件」
だったと言われる。
重盛の妻の兄である
藤原成親
は、
平家打倒を企てた中心人物として、
重盛の懇請むなしく、流罪先で殺害された。
事件直後、重盛が左近衛大将を辞任し、
内大臣の辞職もちらつかせたのは、
清盛の政治判断に対する、
不満の表明であったともいわれている。
≪『愚管抄』には、先の
「イミジク心ウルハシクテ」
の後に
「父入道(清盛)に謀反心があるとみて『早く死にたいものだ』
と言っていた」という文言がある≫
清盛の剛腕な政治手法に心を痛めていたあらわれだろう。
ほぐしてもほぐしてもまたくもの糸 三村一子
また
、時子
の長男・
宗盛
が急速に台頭してきたことも、
父子の溝を深める一因になったようだ。
宗盛は重盛より9歳年下で、人物も凡庸であったから、
本来であれば、重盛の地位を脅かす存在ではなかった。
しかし、現実には、鹿ヶ谷事件前に重盛の後任として
右近衛大将に就任し、事件の翌年に大納言に昇進、
さらに内大臣への昇進も噂されていただけに、
重盛にとっては、心穏やかではなかったであろう。
九分九厘ちゃぶ台をひっくり返してちょん 酒井かがり
六地蔵(徳林庵)
六ヶ所の寺を廻る地蔵巡りとは、
六道
(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上)
に迷い苦しむ、
全ての人々を救済するように願って祀られた六体の地蔵菩薩を、
巡拝すること。
六角に裁断された水の耳 井上一筒
[3回]
y2012/11/01 09:30 z
CATEGORY[ポエム&川柳]
鹿ケ谷の結末
秋が光る誰に眼球を残す 森中惠美子
西光捕縛
「後白河院と清盛の駆け引き」
嘉応元年
(1169)
12月、
尾張守の目代・
藤原政友
と
平野神人
との間に
起きた争いが発端となり、
延暦寺の衆徒らが神輿を担いで入洛し、
藤原成親
の解官・配流を要求してきた。
衆徒らの上洛が迫ると、
朝廷側もこれを防御するための武士を派遣し、
今回も平氏に動員が要請された。
しかし、平氏軍制の中心にあった
重盛
は動かず、
その結果、
後白河院
は衆徒らの要求に屈して、
成親は配流となってしまった。
問答は無用と水茄子の皿で 立蔵信子
ところが、後白河院はすぐに成親を配流先から呼び戻し、
かわりに、この件で後白河院へ取次ぎを行ったにすぎない
平時忠
と
平信範
を解官・流罪とした。
これに対して、衆徒らが再度強訴の構えを見せると
清盛の命により、
重盛
・
頼盛
は福原下向している。
両人の福原下向は、
平氏が強訴の防御に協力しないことを
無言でアピールしていた。
墓石のてんとう虫が動かない くんじろう
さらに福原に居を移して以来、
めったなことでは上洛しなかった清盛がとうとう上洛した。
すると後白河院は、態度を変えてふたたび成親を配流とし、
平時忠と平信範は呼び戻された。
以上が、嘉応元年に起きた延暦寺の強訴をめぐる、
清盛と後白河院の駆け引きである。
寸劇の終わりに下駄の緒が切れる 清水すみれ
サイコロの目
「鹿ヶ谷事件ー始末」
6月1日未明、清盛は、
西光
(藤原師光)
を捕らえて八条第に禁固した。
その理由は、年来積み重ねてきた悪事、
そして
明雲
を配流して、後白河院に讒言したこと、
という2点で、同日中に藤原成親も捕えて禁固した。
彼らに対する扱いは手荒いものであった。
立ちくらむこの世の出口見てしまう 大海幸生
尋問の結果、西光が
「清盛を討つべき」
ことを、
後白河院と近臣等が謀議していたと認め、
その謀議に関わった人々の名を白状した。
即日、清盛は西光を斬首。
翌2日成親は備前に配流された。
が、これは重盛の命乞いの結果であった。
齧り残した麹町局区内 井上一筒
さらに6月3日夜にかけて、
いずれも後白河院の近習である
法勝寺執行俊寛、基仲法師
、
中原摸基兼、惟宗信房、平佐行、平康頼、平業房
を捕えた。
平業房は、後白河院の再三の乞いにより放免されたが、
他の俗人4名は、3日間のうちに官職を罷免されている。
6月5日には、俊寛が解却された。
翌日、いったん放免していた
式部大夫章綱
を、
再び召し取り禁固した。
6月7日に、基仲法師・平佐行を放免したが、
尾張の家人に命じて、流人・藤原師高を殺害させている。
れんげ菜の花この世の旅もあとすこし 時実新子
一方で6月5日、明雲を召し返すことが宣下された。
同日、成親の姻族である重盛が左大将を辞した。
6月18日に、藤原成親・成経・盛頼・親実が解官されたが、
成親の解官の前に配流したのは、
清盛の個人的な遺恨によるものであった。
清盛は成親を7月9日に備前で殺害。
さらに同月中に、
藤原成経、平康頼、俊寛
を鬼界島に、
蓮浄
を佐渡に、
中原基兼
を伯耆に、
惟宗信房
を阿波に、
平佐行
を美作に配流した。
我が死おもえば誰かが笑う冬景色 大西泰世
「清盛の胎」
そもそも比叡山攻撃を回避したい清盛にとって、
謀議の内容など、どうでもよいことであり、
院近臣を処分する口実さえあれば、よかったのではないか、
西光逮捕の罪状は、
讒言によって明雲を配流に追い込んだことにあった。
平家打倒の謀議は、その後の拷問の中で出て来たのだから、
謀議自体がでっちあげだった可能性もある。
別件逮捕で身柄を拘束しておいて、
「謀議」
を演出し、平家に反感を持つ近臣たちを、
一網打尽にしたというわけだ。
忘れもの昨日の昨日のその昨日 小嶋くまひこ
もうひとりの首謀者である成親の行動も、
謀議を凝らしていたにしては不自然である。
『愚管抄』
によると、
西光が斬首される前日、成親は清盛に呼び戻されて出頭し、
「何事かお召しがあったので参りました」
と、公卿の座にいた重盛に挨拶して奥に入ったところ、
そのまま監禁されたという。
「平家打倒の謀議」
という重大な秘密を持った人物が、
当の清盛の呼び出しを受けて、のこのこ参内し、
このような屈託のない挨拶をするものだろうか。
耳ふたつ猜疑の沼を出られない たむらあきこ
[4回]
y2012/10/28 09:30 z
CATEGORY[ポエム&川柳]
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