ロンパリ!考える椅子
川柳的逍遥 人の世の一家言
[
305
] [
303
] [
304
] [
301
] [
300
] [299] [
298
] [
297
] [
296
] [
295
] [
294
]
安徳誕生
今朝一つピラカンサスの実がはじけ 河村啓子
「平家物語」(御産の事)
徳子の皇子誕生。
御簾から顔を出し皇子出産を喜ぶ後白河法皇の言葉に、
思わず泣いてしまった清盛。
(画面は拡大してご覧ください)
点滅にいよよ華やぐ膝頭 酒井かがり
「1178年」
治承2年
(1178)
11月12日、
高倉天皇
と
徳子
の間に、
清盛
念願の男子が生まれた。
のちの
安徳天皇
である。
皇子の無事の生誕を見届けた清盛は、
11月16日に京から福原に戻っていった。
しかし、京で廷臣達が、皇子の立坊の儀
(皇太子になる儀式)
を、
2~3歳の先例が不吉なので、
1歳の時に行うか、4歳で行うかで意見調整していると、
清盛は急遽26日夕方に京に上洛した。
もう少しわくわくせよと山笑う 新家完司
妙順寺(京都市東山区)安徳天皇産湯の井戸
当時の年齢は、産まれたときに1歳で、
正月毎に歳をとる数え年で計算するため、
皇子は生まれた次ぎの年に2歳になる。
1歳で立坊するのであれば、残り2ヶ月をきっているが、
上洛した清盛の意向が影響して、
皇子は1歳の時に立坊することに決まった。
決まったが四十八手にない決め手 松井富美代
安徳天皇(泉湧寺)
皇子は12月8日に親王となり、
言仁
と名付けられた。
同日、近侍する者を任命する
「侍始の儀」
も行われた。
こうして12月15日に
言仁親王
(安徳天皇)
は、
生後1ヶ月あまりで皇太子となった。
満ちて今影の形を整える 上田 仁
「武者鑑ー源三位頼政」
「源頼政が従三位に出世する」
さて、治承2年
(1178)
12月24日に摂津の
源頼政
が、
「従三位」
に任じられた。
清盛一門を別とすれば、
公卿としての待遇を得る従三位が武士として、
きわめて高い位階であることは言うなでもなく、
頼政の父祖で、三位に昇進できた者もいない。
家格からすれば分相応な昇叙に、
貴族たちは大いに驚いたが、
それは清盛の奏請によるものであった。
木星へビオラの弦を張りにゆく くんじろう
清盛の奏請の状には、
「源氏と平氏は我国の堅めである。
平氏は、朝恩がすでに一族に広く行き渡り、
威勢が天下に満ちているが、これは勲功によるものだ。
一方、源氏の勇士は、多くの者が逆賊に味方し、全て罰を受けた。
頼政はひとりだけ正直で、勇名が世に知られているが、
いまだ三品に昇進していない。
すでに70歳余の年齢で、かわいそうである。
しかも、近日は重病だということだ。
黄泉に趣く前に、特に紫綬の恩を授けよう」
とあったという。
青以上に青い君のアンビシャス 和田洋子
朝廷を守護する武力の第一人者となり、
さらには将来の天皇となる孫が生まれ、
得意の絶頂であった清盛の様子が窺える。
安徳誕生の喜びに満ち溢れた清盛の内祝というべき、
推挙である。
頂点のあたりで赤ん坊が叫ぶ 湊 圭史
「安徳天皇誕生の様子」
「清盛の政治構想」
安徳天皇
が誕生し一歳で皇太子となり、
後白河院
との対立が明白なものとなった
清盛
は、
後白河院の代わりとなる政治体制を発足させようとした。
より具体的にいうと、
高倉天皇を王家の家長とし、
「治天の君」
とすることを考えていた。
高倉天皇
の子が天皇となり、
上皇となった高倉院が院政を敷き、
それを清盛が誘導するというのが理想形であった。
蓮根の穴になれたらしめたもの 森田律子
「1179年」
「摂関家領をめぐる後白河院方の介入」
治承3年
(1179)
6月17日、清盛の娘・
盛子
が没する。
享年24歳。
盛子は、摂政・
藤原基実
の室であり、
基実没後は、その遺領たる摂関家領を継承していた。
永万2年
(1166)
の基実の急死により、
藤原基房が摂政に就任し、氏長者に相続される興福寺や、
方上荘などの殿下渡領を伝領したものの、
基実の遺領の大半は、
後家の盛子が伝領していたのである。
幕が開きいきなり雪が舞いしきる 嶋澤喜八郎
当時11歳の盛子が伝領した摂関家領が、
実質的に清盛の支配下にあったことは言うまでもない。
亡くなった盛子の遺領は、高倉天皇が伝領した。
この措置は、
盛子が高倉天皇の准母であったことに基づき、
盛子の遺領となった摂関家領を、
高倉天皇が伝領することで、
平氏による実質的支配の継続を狙っていた。
≪准母=天皇の生母ではないが、母に擬して優遇するための待遇≫
断捨離をそのまま持ってお引越し 森中惠美子
それに対して、藤原基房と後白河院は結託して、
摂関家領の奪取を企てた。
摂政となった藤原基房は、
盛子の没時に
「一ノ所ノ家領文書」
の
伝領を後白河院に申請した。
基房にしてみれば、基実の死去時に、
その遺領の大半を獲得できず、
清盛の娘・盛子に押領されたも同然であった。
しかも嘉応2年
(1170)
の所謂
「殿下乗合事件」
でも、
平重盛の逆恨みを受けるなど、平氏との対立もあった。
目立たないように白旗上げている 高橋謡々
基房の摂政就任・摂関家領奪取の野心は、
平氏に対する恨みと連結していたのである。
後白河院は、高倉天皇領となった盛子の遺領の年貢を、
実質的に管理しようとして、
白河殿倉預に近臣の
藤原兼盛
を補任した。
10月8日には、基房の三男・
師家
が従三位に叙され、
10月9日には、
従二位右中将で20歳の
藤原基通
をさしおいて、
師家が僅か8歳で権中納言に補任された。
師家が将来の摂関となり、
摂関家領を伝領する予定であることが、
明示されたのである。
埴輪のような目にしてもらう手術 井上一筒
さらに同じ10月9日の除目で、
後白河院は、
平維盛
の知行国であり、
通盛
が国守をつとめる越前を、
清盛に断りなく没収して、院分国とし、
院近臣・
藤原季能
を国守としてしまった。
これら摂関家領への介入、
師家の任権中納言、越前没収といった諸問題を、
主たる動因として、
清盛は政変を決断することとなる。
辛抱の箍がはずれてくる夕日 たむらあきこ
[4回]
PR
y2012/11/11 09:30 z
CATEGORY[ポエム&川柳]
<<
頼政と行家
HOME
鹿ヶ谷・流人たちの事
>>
Copyright (C) 2005-2006 SAMURAI-FACTORY ALL RIGHTS RESERVED.
忍者ブログ
[PR]
カウンター
1日1回、応援のクリックをお願いします♪
最新記事
式部ー藤壺・花陽炎-①
(11/21)
式部ーどうにもとっまらない-賢子
(11/14)
式部ーどうにもとまらない賢子
(11/07)
式部ー賢子--跳んで弾けてとまらない
(10/31)
式部ー恋の手立ては手紙から
(10/24)
リンク
管理画面
新しい記事を書く
メールログイン
カテゴリー
演劇・映画 ( 8 )
ポエム&川柳 ( 1091 )
アルバム(風景) ( 2 )
アルバム(催事) ( 2 )
アルバム(動物) ( 0 )
雑学 ( 43 )
名言・辞世の句 ( 0 )
未選択 ( 0 )
プロフィール
HN:
茶助
性別:
非公開