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川柳的逍遥 人の世の一家言
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解体新書でユーレイの足探す  中川隆充

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   俊寛僧都山荘跡

「鹿ケ谷事件は本当にあったのか?」

騒動の起点である藤原成親・西光等の隠謀について、

『平家物語』は、

成親宗盛に右近衛大将をめぐるライバル争いがあり、

安元3年(1177)正月に、

平重盛・宗盛が兄弟で左右の近衛大将に補任されたため、

願望の叶わなかった成親が、

「平家討伐の隠謀」(鹿ヶ谷事件)を企てたとする。

≪しかしこれは、虚構と考えられている≫

裏切りを地獄の釜に投げ入れる  高橋謡々

当時の右大将就任者が摂関家や大臣家の子弟、

もしくは、天皇の外戚に限られていることから、

成親が大将に補任される可能性は、ほぼなかった。

また『平家物語』は、

成親を始とする後白河院近臣が、多田行綱を総大将として

清盛を討つ陰謀を企てていたところ、

「行綱が清盛に密告して露顕した」とする。

その時へ脈を鍛えているところ  壷内半酔

行綱の武力が平家に比して、はるかに小規模であることや、

多田荘が当時、

清盛の実質的な支配下にあった摂関家領であることを、

勘案すれば、隠謀の内実には、疑わしいところもある。

隠謀の露顕は、清盛にとって「比叡山攻撃を回避」し、

かつ「院近臣を一網打尽にする絶好の機会」 となった。

西光の捕縛・自白の経緯からしても、

清盛側で筋書きを描いた感が否めない。


たたんだら袋ひとつで足りました  桜 風子

ただし、行綱の密告自体は、

『百錬抄』『六代勝事記』『愚管抄』にも記されており、

事実の可能性が高い。

とりわけ現在の権大納言・成親以下、

院近臣複数名を殺害・配流するというのは尋常ではなく、

よほどのことがあったと考えなければならない。

真相は不明であり、

「平家物語」は事態を誇張しているであろうが、

何らかの後白河院近臣の陰謀は、

あったと考えるべきであろう。

片割れの茶碗はなにもしゃべらない  桑原伸吉

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重盛を諫言する清盛

「重盛の立場」

成親清盛の間で板挟みとなったのが、

重盛である。

重盛は、成親の妹婿にして子息同士も姻戚関係にあり、

成親の命乞いをした上、配流された成親には、

密かに衣類を送るなどの支援をしていた。

踝に鼻すりつけて旅なかば  酒井かがり

また重盛は、「平治の乱」以前から、

後白河院近臣である藤原成親の同母妹を妻とし、

乱後は、後白河院の御給で昇進するなど、

早くから後白河院に近い立場にあり、

当初は後白河院と清盛の協調関係の下で、

清盛・嫡男としての道を順調に歩んでいた。

運命と割り切ったのに出る余り  松本柾子

しかし、清盛の妻・時子とその所生・宗盛以下の子女が、

応保元年(1161)高倉天皇(時子の甥)の誕生、

徳子(時子の娘)の高倉天皇への入内、

さらには安徳天皇(時子の孫)の誕生により、

清盛一門の中で、存在感を増してくる。

高倉・安徳と血縁関係にある弟が台頭することで、

相対的に一門内での重盛の立場は後退し、

従来以上に、後白河院や院近臣に接近することとなる。

わたしの腎臓を医者が嗅いでいる  井上一筒

それでも、後白河院と清盛の関係が協調的であれば、

嫡男としての重盛の立場に、

特段の問題は生じなかったはずだが、

建春門院の死去後、

清盛と後白河院の競合的側面が顕在化していくと、

重盛は一層微妙な立場に置かれることとなる。

かかる不安定要素を抱えたまま、

4月に「安元の強訴」

6月には、「鹿ヶ谷事件」が起こり、

成親が殺されてしまったのである。

ひけ目でもあるのか雨がそっと降る 嶋澤喜八郎

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      重盛の墓

重盛が後白河院と成親に従えば、

平氏は分裂する危機にあった。

父清盛に「謀叛心」ありと見て「早く死にたいものだ」等と、

厭世的な発言をしていたと『愚管抄』は伝えるが、

一連の騒動で重盛の立場が、

決定的に悪化したことは言うなでもない。

やがて重盛は、体調不良により、

治承3年(1179)7月末に42歳で没する。

順不同に消え去る旅にいるのです  たむらあきこ

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鬼ごっこ転ぶドロップの缶が鳴る  くんじろう

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平家物語絵巻(〔小教訓の事〕)

引き据えた藤原成親と対面する清盛

治承元年(1177)6月1日、
多田行綱の密告により、

後白河法皇第一の近臣
・西光を問責し、

「鹿ヶ谷の陰謀」(鹿ヶ谷事件)が発覚、


藤原成親も呼び出され捕縛される。


(各絵巻の画面は、クリックすると拡大され見やすくなります)

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平家物語(〔鹿ヶ谷の事〕)

院近臣が平氏打倒を謀議したとされる「鹿ヶ谷山荘での酒宴」

院近臣の静賢の山荘に後白河が御幸。

催された酒宴の席で
藤原成親、西光、俊寛らと、

平氏打倒を謀議したとされるが、真相は不明である。


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「鹿ヶ谷事件ー序章」

延暦寺強訴の発端は、藤原師高の弟で目代の師経が、

延暦寺の末寺と所領問題を起こし、

師経が末寺を焼き払ったことにあった。

延暦寺は師高の配流を求めたが、

師高が法皇の寵臣・西光の子であったため、

後白河は、師経だけを罰して乗り切ろうとした。

≪西光はもと信西の家人で俗名を藤原師光といったが、

   信西が死んだだのち出家して後白河に仕え、


   「法皇第一の家臣」にまでのしあがった人物である≫

何もかも忘れ縺れてしまおうか  山本昌乃

しかし、延暦寺側は後白河の処分に納得せず、

4月13日、日吉社や祇園社など、

七基もの神輿をかつぎ出して、

高倉天皇の閑院内裏に押し寄せた。

このとき、内裏を警備していた重盛の軍兵の放った矢が、

神輿の一つに命中し、

延暦寺の衆従にも、死傷者が出る事態に発展した。

きりきりと刺してくるのは赤い月  笠嶋恵美子

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怒った大衆は神輿を置き去りにして、

いったん比叡山に帰ったが

武力攻撃を命じたのは、後白河自身であったという。

間もなく、悪僧たちがふたたび強訴を行う姿勢を見せたため、

後白河は神輿を射させた責任から、

やむなく、師高を尾張へ配流、

神輿を射た平家の武者を監獄へ送った。

だが、これで黙っている後白河ではなかった。

人間は裏切るように出来ている  中村幸彦

強訴の責任は、「延暦寺座主の明雲にある」

といいはじめ、座主職の解任と所領の没収を命じ、

公卿たちの反対を押し切って、

明雲の伊豆配流を断行したのである。

しかし、延暦寺の悪僧たちは大胆にも、

護送中の明雲を近江の瀬田大橋付近で奪い取り

比叡山に連れ帰ってしまった。

渋滞がほぐれたように突然に  吉川幸

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激怒した後白河は重盛、宗盛の兄弟に出撃を命じたが、

二人は「清盛の指図に従う」といっていうことをきかない。

比叡山憎しの一念にとりつかれた後白河は、

福原に使者を派遣して清盛を呼び出し、

ついに、比叡山攻撃を了承させてしまう。

山頭火以上に垢じみた男  井上一筒

さすがに政界一の実力者である清盛も、

治天の君である後白河の直々の指令は、

拒むわけにはいかなかったのだろう。

この時の清盛は、はたからみても、

「内心よろこばず」という様子だったという。

要らんこと言いなややこしなるだけや  一階八斗醁

平家にとって、比叡山を敵に回して得るものはなにもない。

しかも、天台座主・明雲は、

清盛が出家したときの受戒役なのである。

かって信西は後白河を評して、

「こんな愚かな君主はみたこともないが、

 何かしようと思うことがあれば、

 必ず成し遂げるのが取り得である」
 と述べた。

言い出したら聞かない後白河の性分は、

清盛も十分承知していたのだろう。

清盛は窮地に立たされた。

テッペンはあるのか明日は見えるのか  和田洋子

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平家物語(〔西光被斬〕)

西光(藤原師光)の斬首が決定される。


ところが、比叡山攻撃を間近に控えた6月1日、

事態は急変した。

明け方、明雲を讒言したかどで西光が捕縛され、

厳しい拷問の末、

「入道相国を危うくすべきの由」 とした清盛を倒す計画を、

法皇や近臣と謀議したことを白状し、

翌日、五条坊門朱雀で斬首された。

秋桜もつれたあたりから刺客  前中知栄

「下部の分際で父子ともに分不相応な振る舞いをしおって」

という清盛に対して、西光が、

「殿上のまじわりさえ嫌われる人(忠盛)の子でありながら、

  太政大臣にまであがることこそ過分である」


とののしったという。

≪『平家物語』の有名なエピソードは、このときのものである≫

煮崩れたらしい人相変わってる  喜多川やとみ

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平家物語(〔新大納言流罪〕)

流罪になる藤原成親

続いて、藤原成親、成経父子も捕縛されて、


西八条邸に押し込められ、

成親は翌日備前へ配流、流刑地で暗殺された。

俊寛僧都・平康頼・成経の3名は、

薩摩の鬼界ヶ島(硫黄島)に流された。

6日には、明雲の赦免が決定され、

比叡山への武力攻撃は、未然に回避されたのであった。

咳払い一つで幕が下りました  谷垣郁郎

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仏滅の睫毛しずしず燃え尽きる  井上一筒

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     経ヶ島縁起

「大輪田泊ー人工島築造エピソード」


福原の外港は、「大輪田泊」と呼ばれ、

奈良時代から瀬戸内有数の港として知られていた。

港の西側に和田岬があって、

自然の防波堤の役割を果たしていたが、

東南は海に開かれており、

風波のために、しばしば船が難破した。

清盛が宋と貿易を始めるにあたって、

この港の整備が最大の難題であった。

いらだちの輪切り重ねて不整脈  たむらあきこ

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       経ヶ島

一つずつ石を積み上げて完成させたものの、

翌年、大きな風波が来て、たちまち崩れ去ってしまった。

そこで、表面にお経を書いた石を船に積み込み、

船ごと海に沈めて島を築いた。

工事は承安3年(1173)に始まり、

2年がかりで完成したが、この築港によって、

付近を航行する船が、

「風波にわずらわされることがなくなった」

と、『平家物語』は、たたえている。

息一つ吐いてしっかり打つ句点  笠嶋恵美子

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                 経 石

はじめ石堤が崩れたとき、

公卿たちは「人柱」を立ててはどうかと提案した。

人柱とは、人間をいけにえとして生き埋めにし、

工事の成功を祈願する古代の呪術の一種である。

なんともおぞましい提案であるが、

「それは罪業である」

という清盛の一言によって、人柱計画は立ち消えとなり、

石にお経を書いて埋める工法がとられたという。

立ち位置が決まらないので吠えてみる  美馬りゅうこ

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      来迎寺

ところが、『源平盛衰記』によると、

逆に清盛が、人柱を発案したことになっている。

幸若舞の『築島』にいたっては、

清盛が30人の人柱を立てる計画にこだわったが、

最終的に清盛の近習である松王が、

人柱にたち、人々を救う筋立てになっており、

清盛の非道ぶりは、ここに際立っている。

≪現在、神戸市兵庫区の来迎寺には、

このとき犠牲になった松王の墓なるものまで残されている≫


ごった煮の中から真実のあぶく  三村一子

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    松王墓


「松王小児伝説」

清盛には、そば仕えの侍童が何人かいた。

その中のひとり、讃岐国の武将の子・松王丸という

十七歳の侍童が、人柱になる人々の惨状をみかね、
 
「人柱などというむごいことは、おやめください。

  私が三十人の身代わりになりましょう」


 と清盛に言い出した。

「侍童」=高貴な身分の人に仕え雑用や話相手などをつとめる少年のこと。

侍童には、頭脳明晰の美少年が選ばれていたという。


わが死語のあおき空かも罌栗(けし)坊主  大西泰世

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     松王墓台座

しかし、清盛はなかなか聞き入れなかった。

それでも松王丸はあきらめず、何度も清盛に訴え、

ついには、清盛も、松王丸の熱意に負け、

申し出を聞き入れるのである。

その後、石の櫃(ひつ)に入れられた松王丸は、

白馬の背に乗り港へと運ばれ、

千人の僧侶の、読経の声がひびく中で、

海の中へと沈んでいった。

それを見送った人々は、涙を流しながら、

お経を書き写した大小さまざまの石を、

海へ投げ入れたと言う。

里山の無縁仏に絶えぬ花  ふじのひろし

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げんまんをしては懺悔をする小指  上嶋幸雀

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  平家物語絵巻(大輪田埋立工事)

「滋子の死の大きさ」


高倉の即位のため提携し、即位後は協調して、

政治を進めてきた後白河と清盛であったが、

諸権限をめぐって次第に対立を深めていた。

しかし、建春門院滋子が間に立って、

政治的に仲介する役割をはたしていたため、

なんとか協調関係は維持されていた。

生きているそれが一つの宝箱  河村啓子

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三嶋神社(京都東山)

建春門院が三嶋神に祈願したところ高倉天皇を授かったことから、

後白河院の命で平重盛が社殿を造営したと伝わる。


そんな中、安元2年(1176)6月初旬から、

建春門院の体調不安が伝えられている。

早速、6月9日には天台座主の明雲が、

建春門院の回復のため、七仏薬師法を修している。

さらに翌日には、蓮華王院において千手法

16日には、五壇法を修している。

≪しかし、18日には院号,年官年爵(ねんかんねんしゃく)を辞し、

   諸社に仏教を供養、非常赦
(ひじょうしゃ)を受けていることから、

   建春門院の病は、重くなる一方だったことがわかる≫


そして7月8日、種々の祈祷もむなしく建春門院は、

法住寺殿において没し、その翌々日には、

蓮華王院の東の法華三昧堂に葬られた。

死んだように眠り 眠ったように死ぬ  新家完司

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東大寺四月堂(三昧堂)

三月堂の西側にあり、毎年4月、法華三昧が行われるため、

三昧堂の名がある。


建春門院の死により、

高倉天皇の地位は不安定なものとなった。

清盛は、娘の徳子を高倉天皇の入内させていたが、

いまだ皇子の誕生はなく、

後白河院は成人に達しようとする高倉天皇の皇太子に、

自身の幼い皇子をたて、

再び院政の強化を図ろうとしていた。

鳩尾に赤いゴーヤの種を蒔く  くんじろう

さらに清盛と後白河院の関係の悪化は、

嫡男・重盛との間にも、溝をつくることになる。

重盛は院近臣である藤原成親との関係などから、

平氏一門の中でも、後白河院に近い立場にあり、

院近臣の立場を維持しようとしていた。

グウの音の出どころさぐってはみるが  中村幸彦

そのため、後白河院と清盛が提携関係にあった頃は、

矛盾も少ないが、

両者の間の対立が激しくなると、

重盛の平家一門としての立場と、

院近臣としての立場は、

大きな矛盾を生むことになった。

方角は悪いし味方は少ないし  片岡加代

もとより、藤原成親ら院近臣たちは、

平家一門が権勢をバックに高位高官を占めることに対して、

不満や妬み、憎しみを持っていた。

清盛と後白河の仲をとりもつ人・滋子がいなくなり、

嫌がうえにも、

反平家の機運は、高まっていくのである。

≪こうして反平家の機運が高まる中、

   「鹿ヶ谷事件」の前哨戦というべき比叡山の強訴が起こったのは、

   それから間もなくのことである≫


ほん横を象がキリンがハイエナが  酒井かがり

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『梁塵秘抄口伝集』

梁塵秘抄とは、歌のジャンルや歌い方、

各種伝承や自らの今様歴を記した

平安時代末期、後白河法皇が編んだ「今様歌集」である。

今様とは「今風の」のことを言い、

平安中期から後期に大流行した流行歌集である。

≪今で言えば歌謡曲集≫

どこからどこまでわたくしでしょうか  吉川 幸

今様は和讃、催馬楽(さいばら)といった、

歌謡形式に影響を受け、七五調四句でうたわれた。

これを広めていったのが、

白拍子、遊女、傀儡女(くぐつめ)たちである。

そもそも「梁塵秘抄」の今様は庶民のものであった。

それが宮廷でも愛された。

≪しかし残念ながら今様の流行は、

   武家政権の誕生、時代の移り変わりに呑まれて、

   鎌倉時代をもって廃れる≫


聞き耳はガラス障子に阻まれる  山口ろっぱ

「今様歌」

〔熊野へ参るには〕
紀路と伊勢路のどれ近し どれ遠し
広大慈悲の道なれば
紀路も伊勢路も遠からず


〔熊野へ参らむと思へども〕
徒歩
(かち)より参れば道遠し すぐれて山峻し(きびし)
馬にて参れば苦行ならず
空より参らむ 羽賜べ
(はねたべ)若王子

〔熊野の権現は〕
名草の浜にこそ降りたまへ
若の浦にし ましませば
年はゆけども若王子

〔花の都を振り捨てて〕
くれくれ参るはおぼろけか
且つは権現
(ごんげん)御覧ぜよ
青蓮の眼
(まなこ)をあざやかに

涅槃会に出かける森の仲間たち  本多洋子

熊野に詣でにかかる費用は莫大だったという。

経費労力は沿道を行きながら、

行きずりの民衆から強制的に集めた。

つまり強奪にひとしき行いである。

沿道の民には、購買宿泊でお金も落ちてくるが、

それ以上に、貴種たちの搾取には苦しめられた。

その苦しみが、唄のなかにも詠まれている。

隠れ家に柾目の下駄が鎮座する  山本昌乃

『枕草子』や『紫式部日記』に始めて登場する「今様歌」は、

文字通り当世風の歌という意味だが、

当初、若い貴族たちによって牽引されたブームであった。

が、後朱雀天皇(1036-1045)の頃には、

宮中をあげての流行を見せはじめ、

白河院、鳥羽院の院政期には、

その隆盛を極めたとされている。

ごった煮の中から鶴が顔を出す  寺島洋子

遊びをせんとや生まれけむ
(たはぶ)れせんとや生まれけむ
遊ぶ子どもの声きけば
わが身さへこそゆるがるれ


母親の影響から、今様にどっぷり浸かった後白河法皇は、

往年の天皇たちが和歌に傾けたような情熱を、

今様に対して持ち続け、

ついには傀儡の乙前に弟子入りして、

今様の正統な後継者たらんとした。

これは趣味として今様を嗜むというレベルではなく、

いわゆる今様道を極めようと決意した、

求道者の如きものであった。

鳥居の下を掘り 鳥居が倒れた  井上一筒

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いけません賽銭箱は入れるもの  筒井祥文

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    宋との貿易

(すべての画像は拡大してご覧ください。観光効果が味わえます)

「清盛の経済革命」

「金が要る」  清盛はそれを「日宋貿易」に求めた。

父・忠盛が西海の海賊を鎮定して得た貿易権を、

継承したのだが、清盛はさらに本格的にしようとした。

海に向かって開かれた玄関口のような「厳島神社」から、

「音戸の瀬戸」を通り、瀬戸内海の奥座敷ともいうべき、

茅渟(ちぬ)の海へと、「宋船」を導き入れたことがそれである。

攻めるより手をつなぐこと考える  合田瑠美子

大小の和船が先導し、かつ護衛してゆく先には、

摂津国矢部荘福原の港がある。

宋船はそこへ入港した。

港は、「大輪田泊」という。

清盛が惜しみなく私財を投じ、

阿波国の豪族・田口成良に修築させたものである。

清盛が土木工事に抜きん出た才能を持っていたのは、

この修築からも実感できる。

物忘れしてきたような臍の穴  河村啓子

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   大輪田泊記念碑

この港は地理も水深も、充分なものがありながら、

風浪の激しいことが難点だった。

そこで中納言の頃の清盛は発案した。

「島を造って、風浪を弱めれば良いではないか」

海を埋め立てて島を造る。

だが、それにあたって公家たちが

「人柱を立てるべきだ」 と言い出した。

清盛はこれを一蹴し、

「一切経の経文を書いた石」を沈めて基礎とした。

そのため、島は「経が島」と名付けられた。

白菜の真ん中にある決意  新川弘子

なぜ、これほどの大工事をして宋船を摂津まで、

導き入れる必要があったのか。

当時、日宋貿易の拠点となっていたのは、

九州の博多だった。

博多には宋の商人が屋敷を構え、

貿易を独占する勢いで商いを展開していた。

清盛はそんな状況に苛立った。

博多を通り越して、福原まで宋船を招き寄せれば、

膨大な利を得られよう。

そう信じ、私財を傾けて、

「大輪田泊」の大修築に踏み切ったのである。

迷いだしたら金平糖エイヤ  蟹口和枝

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   宋 銭                宋の椀


かくして、宋船はこの完成間近な経が島を回り込んで、

投錨し、摂津の地に荷を揚げた。

荷は様々にあったが、代表はやはり「宋銭」であろう。

この宋国の貨幣は、

これまで僅かながら流通していた国産の貨幣を圧倒した。

当時、お多福風邪が諸国に蔓延しており、

たまさか宋銭が溢れ返り出した時期と重なったために、

「銭の病」などと呼ばれたりもした。

痛い目に合わねば醒めぬ欲の夢  伊達郁夫    

それくらい宋銭は猛威を振るったが、

貨幣経済を驚くほど進歩発展させもした。

言い換えれば、

清盛は日宋貿易によって、

「経済革命」を引き起こしたのである。

革命は、清盛をして朝廷を凌ぐほどの富者にまで押し上げた。

だが、限られた国内において、ある勢力が伸し上がれば、

それとは別な勢力は凋落する。

前者は、「平家」、後者は、「朝廷と寺社」だった。

閂をはずせば街は水びたし  嶋澤喜八郎

清盛が肥大すればするほど、

そのせいで貧相になる者が出る。

当然、膨張してゆく側は、没落してゆく側から、

妬かれ、疎まれ、憎まれる。

このとき、清盛ごときに媚び諂うものか。

鬱勃(うつぼつ)と敵愾心を滾らせたのが、

後白河上皇であった。

小石蹴る負けを認める認めない  西崎久美子

後白河は天皇在位の頃より、清盛と蜜月関係にあった。

互いに利用し、利用されることを好しとして、

邪魔な存在を次々に攻め滅ぼし、

遂には、この国の頂点に君臨した。

しかし、清盛が千僧供養を催した頃から、

蜜月に皹が入り始めた。

千僧供養は千人の僧を招いて読経をさせることで、

以後、清盛は春と秋の彼岸には必ず催した。


正面の顔がやっぱり阿修羅像  小林満寿夫

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後白河も出家して法皇となってからは、

千僧の一人となって参加している。

否、参加させられた。

また福原を訪れた宋の使者との引見まで求められた。

これについて公家の九条兼実は、

「天魔の所為なり」と日記に綴っている。


凱旋門通り抜けたら只の人  井丸昌紀

天皇や法皇が外国人に覲えることなど、

「未曾有のことだ」

と騒ぎ、公卿たちは陰口を叩いた。

だが、清盛は他人が己をどのように思おうが、

そんなことはどうでもよかった。

清盛には、為さなくてはならないことがある。

平たく言ってしまえば、国を富ませることだった。

貿易を臍としたより一層の経済発展を成し遂げねばならない。

それによって平家一門もますます繁栄する。

運命線に風のみた銭ばかりある  森中惠美子

(秋月達郎・「歴史街道」)-Ⅱ

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