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川柳的逍遥 人の世の一家言
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駄菓子屋で買う 小銃と血の匂い  井上一筒

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   義朝の刃

「裏目に出た配慮」

清盛が太政大臣となり、平氏一門が繁栄を極める最中、

明暗を分けるように没落した一族がいた。

源氏である。

平治の乱後、河内源氏の棟梁・義朝は、

東国への撤退中に裏切りにあい横死。

次男・朝長もその道中に死んだ。

悪源太の異名を持つ期待の長男・義平は、

清盛暗殺に失敗して処刑されてしまう。

直線の右と左に生と死と  徳山泰子

源氏は壊滅に等しい打撃を受けたが、

しかし、血筋がすべて絶えたわけではなかった。

平治の乱に出陣した義朝の三男・頼朝は、

撤退中に捕らえられて清盛の前に引き立てられた。

その時、清盛の継母・池禅尼が、

「亡くなった家盛と容貌が似ている」

と命乞いをした。

逞しく育つ若木を見届ける  杉谷佳子

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周囲は頼朝の処刑を、当然と見なしていたが、

驚くべきことに、清盛は池禅尼の乞いを容れ、

頼朝の処分を伊豆配流にとどめたのである。

助けられたのは、頼朝だけではなかった。

義朝が愛妾・常盤御前との間に授かった、

今若、乙若、牛若(後の義経)の三人も、

仏門に入ることを条件に、清盛から助命されたのである。

≪なお、清盛は常盤御前が自身の愛妾になることを条件に、

   三人を助命したと巷間言われるが、忠実かどうかは分らない≫


オリオン座今日はあなたに預けとく  森田律子

「悪人」のレッテルを貼られてきた清盛であるが、

決して冷血な人物ではなく、

むしろ寛大であり、

敵対勢力を徹底的に叩き潰すようなことはしなかった。

それを示すかのように、

その後も源氏に配慮を怠らず、

平治の乱でともに戦った摂津源氏・源頼政を、

三位に推挙している。

ドクダミのじっと耐えている白さ  赤松ますみ

その際、

「源平はわが国の固め。

 平氏は朝恩が一族にいきわたっているが、

 源氏の勇士は逆賊(藤原信頼)に与して罰をうけており、

 その中で頼政のみが、勇名を轟かせている。

 紫綬の恩を授けてほしい」


と奏上しており、「源氏の勇士」という言葉からは、

源氏への敬意すら感じられる。

≪そこには源平の無用な戦を避けようとする意図が汲み取れる≫

脱皮した蝉の抜け殻にも拍手  新家完司

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ところが、清盛の配慮は裏目に出る。

治承3年(1179)、清盛が後白河院の院政を停止すると、

頼政は清盛に徐々に反発を抱く。

さらに翌4年(1180)

清盛の後押しで安徳天皇が即位すると、

頼政はそれによって、

皇位が絶望となった以仁王(後白河院の第三子)とともに

打倒平氏の計画を立て始めた。

反省をすぐに忘れる猫の鼻  中村登美子

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かくして同年4月、以仁王は頼政の進言を受け、

全国に雌伏する源氏に「打倒平氏」の令旨を発する。

清盛はこの動きを察知して、

二人の挙兵を短時間で鎮圧するが、

発せられた令旨によって、

反乱は、燎原の火の如く全国に広がることとなる。

そして、平家追討の中心となったのが、頼朝と義経であった。

皮肉な事に、打倒平氏の狼煙を挙げ、

それを成したのは、いずれも、

清盛が救いの手を差し伸べた人物だったのである。

一年に一度石を拾って恐くなる  蟹口和枝

拍手[3回]

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赤黒いもの躙りよる華氏3度  井上一筒

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     大輪田泊

「出家して福原に居住する清盛」


清盛は、仁安3年(1168)に出家した後、

基本的には摂津国福原に移り住み、

京にはほとんど滞在しなかった。

福原が選ばれたのは、

近くに瀬戸内海交通の要所、

大輪田泊があったことによる。

流れ星きっと引退する星だ  星井ごろう

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清盛が福原に住むようになった理由は、

貿易に専念するためとも、

後白河院との対立が深まる中で、

距離をとろうとしたともいわれる。

最近、清盛と福原の関係を権門都市という位置づけで、

かんがえられている。


≪権門都市」とは、摂関家にとっての宇治、王家にとっての、

  鳥羽や白河のように公的地位を退いた権門の家長が、

   自由な活動を行う拠点のことである≫


三叉路の今日は左に折れてみる  合田瑠美子

「西八条邸は、現在の京都市下京区、梅小路公園あたりである」

ちなみに、清盛の妻・時子は京の西八条邸に住まい、

清盛が福原から上洛した際は、ここに滞在している。

ちなみに当時この邸宅は、

清盛でなく時子の邸宅と認識されていた。

こうして清盛が福原に居住するようになったことで

福原周辺の開発が一気に進み、

「福原遷都」に繋がる素地ができあがっていった。

縁から縁へ結び目は堅い  瀬川瑞紀

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また、福原では春と秋の2回千僧供養が行われ、

後白河院は、高倉天皇の母・滋子を連れて、

たびたび福原を訪れている。

清盛が千僧供養を行ったのは、

海上交通の安全を祈願するだけではなく、

主要な寺院の高僧を自在に動員できる上に、

仏教界の支配者であるということを、

アピールすることにあった。

そこに、後白河院が列席するというのは、

清盛と後白河院の緊密な連携を象徴する儀式であった。

晩年が涙あつめて会いにくる  河村啓子

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「後白河院と清盛の協調関係にほころび」

後白河院清盛は、高倉天皇の即位を目的に、

提携関係を結び、即位を実現させた。

しかし、清盛は、

「平氏一門の発展、大臣家としての家格の安定」 を、

後白河院は「院政の強化」を目指していた。

両者の間には提携関係が結ばれた当初から、

政治構想において、大きな隔たりが生じていた。

さらに、清盛は、院近臣との間にも対立を深めていた。

後白河院政の発展による院近臣たちの地位上昇は、

現在の平氏の地位を脅かしかねないからだ。

万匹の狸一匹連れ帰る  黒田忠昭

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院の専制強化を阻止しようとする清盛は、

院の重要な権限の一つである人事へ介入している。

具体的には、「除目」への介入である。

白河院による院政の開始以来、摂関の任免など、

人を左右して政治を主導してきたため、

人事権は院の持つ権限の中でも

特に重要なものであった。

頭平信範は、除目叙位などを伝える使者として

清盛邸に「両度往反」したとあり、

清盛が人事に対して、納得するまで

調整させていたことがうかがえる。

≪なお、これが行われたのは高倉天皇即位以前のことで、

  提携関係が結ばれた直後から、

  清盛と後白河院の間にあった緊張関係を物語っている≫


黄河へ流すぞとたこ焼きをおどす  森 茂俊  

「強訴をめぐる後白河院と清盛の駆け引き」


嘉応元年(1169)12月、尾張守の目代・藤原政友

平野神人との間に起きた争いが発端となり、

延暦寺の衆徒らが、神輿を担いで入洛し、

尾張国の知行国主成親の解官・配流を要求してきた。

衆徒らの上洛が迫ると、

朝廷側もこれを防御するための武士を派遣し、

今回も平氏に動員が要請された。

青い星赤い戦火が止まらない  早泉早人

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しかし、平氏軍制の中心にあった重盛は動かず、

その結果、後白河院は衆徒らの要求に屈して、

成親は配流となってしまった。

けれど、後白河院はすぐに成親を配流先から呼び戻し、

かわりに、この件で後白河院へ取次ぎを行ったにすぎない

平時忠平信範を解官・流罪とした。

これに対して、衆徒等が再度強訴の構えをみせると、

清盛の命により、重盛・頼盛は福原に下向している。

≪両人の福原下向は、平氏が強訴の防御に協力しないことを

無言でアピールしていた≫


煮て焼いて振り掛けにする言い掛かり  岩根彰子

さらに、福原に居を移して以来、

めったなことでは上洛しなかった清盛がとうとう上洛した。

すると後白河院は態度を変えて再び成親を配流とし、

平時忠と平信範は呼び戻された。

以上が、嘉応元年に起きた「延暦寺の強訴」をめぐる清盛と

後白河院の駆け引きである。

なぜ重盛は、義兄にあたる成親を救うために、

動かなかったのだろうか。

鉛筆を曲げてかじって壊す癖  伊庭日出樹

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重盛が後白河院の動員要請に応じなかった背景には、

平氏一門内の複雑な事情があった。

重盛は平氏一門の中でも、後白河院に近い立場にあった。

しかし、父・清盛はというと、

後白河と政治的に協調関係にあるものの

院政の専制強化を警戒し、院近臣にも反感を抱いていたため、

その救済には非協力的だったのだ。

正確に言うと、重盛は動かなかったのではなく、

成親救済に動けなかったのである。

綿菓子の円運動は搾取の図  一階八斗醁

後白河の要請よりも、

清盛の指示が優先されたことからも明らかなように、

両者が協調関係にありながら、

諸権限において対立していたことがわかる。

自分にはごめんと言える燗冷まし  杉野恭子

拍手[4回]

さあ今日も私が地球回さねば  高橋謡々

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「清盛と後白河の提携関係の結実」


仁安3年(1168)2月9日、清盛が重病に陥った。

11日には死を覚悟したのか出家し、

妻の時子もあわせて出家した。

また、熊野詣に出かけていた後白河院も急ぎ帰京するほど、

清盛の病がいかに重篤であったかがわかる。

後白河院は、清盛と、

「憲仁親王を即位させること」で提携しており、

万が一清盛が没すれば、有力な支持者を失い、

さらに、六条天皇を擁立する勢力が、盛り返すことで、

憲仁の地位が危うくなると、考えたのかもしれない。

この先を読んで闇夜のカラス描く  谷垣郁郎

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     以仁王

後白河院が
憲仁天皇の即位を急いだ理由は、

ほかにもあった。

それは、後白河の第2皇子・以仁王の存在である。

以仁王は六条を推す八条院の養子となっていた。

さらに以仁王は、出家を拒否し、

憲仁の親王宣下の直前に元服している。

即位を狙っているためと噂された。

すでに成人をむかえ、

八条院という強力な支援者を得ていた以仁王の存在は、

憲仁を即位させ、

自身の院政強化を目論む後白河院にとって

大変な脅威であった。

疑えば針の先まで恐くなる  森中惠美子

そして2月16日、六条天皇が即位し、

憲仁親王(高倉天皇)が践祚(せんそ)した。

ついに、清盛と後白河院の提携関係が実を結んだ。

これにより、後白河院の権力は頂点に達したといえよう。

その後、清盛は病を克服、高倉天皇の即位を機に、

清盛と後白河院の関係は、「提携から協調」へと変化した。

空白を埋めるゲームだ終れない  岩田多佳子

しかし、突然の譲位、高倉天皇の即位に対して、

不満を抱く者も少なくはなかった。

即位した六条天皇を擁立していた勢力だけでなく、

一般の貴族でも、反発する者がいた。

その要因は、

高倉天皇の母・滋子が平氏の出身だったことである。

平安時代に入ってから、

皇女や藤原氏以外の国母は誕生しておらず、

「平氏出身の国母の誕生が忌避された」からである。

虹をあおぐ前頭葉に残る足あと  湊 圭司

716d0b4b.jpeg  

平氏一門内でも、六条天皇の即位、

高倉天皇の即位に対して、反発する動きをみせる者もいた。

それは、清盛の異母弟・頼盛である。

頼盛は忠盛の正室・池禅尼を母とする。

池禅尼が保元の乱における平氏の去就に、

大きな影響を与えたように、後家としての力は、

家長である清盛でも、無視することができなかった。

その子である頼盛は、平氏一門の中で、

清盛や重盛に次ぐ力を有しており、

その動向には清盛も、注意する必要があった。

上座とはなんと寂しい指定席  こはらとしこ

仁安3年(1168)11月11日、大嘗会が行われた。

大嘗会とは、天皇の即位後、

初めて行われる新嘗祭(にいなめさい)のことである。


そこで頼盛の子・保盛は、

五節の舞姫を献上しておきながら、

何度も催促されたにもかかわらず、

出仕しないなど不手際が多く、

譴責(けんせき)は5度に及んでいた。

鼻詰まりの忍者 天井で屈む  井上一筒

ついに、後白河院は頼盛・保盛父子を解官した。

頼盛が就いていた太宰大弐は、藤原信隆に代わり、

知行国の尾張は没収され、成親に与えられた。

頼盛父子がこのような態度をとった背景には、

頼盛が、八条院の女房を妻とし、

八条院領の預所を務めるなど、

八条院と政治的に近い関係にあったからだ。

山芋のぬるぬる少し甘えるか  山口ろっぱ

六条天皇を支える有力な勢力である八条院と

その周辺に仕える者たちにとって、

六条天皇を強引に即位させた後白河院、

それにより、即位した高倉天皇、母后・滋子に対する反発は強く、

頼盛がこのような行動をとるに至ったと考えられる。

≪なお、頼盛は同年12月30日には還任している≫

このように、清盛の意思とは裏腹に、

独自の行動をとる存在は、平氏一門とはいっても、

一枚岩ではないことを表している。

薄皮を残して今日は墓参り  酒井かがり

平氏一門内には、頼盛のように、

高倉天皇即位に対して、反発した行動をとる者もいれば、

高倉天皇の即位によって、地位を後退させた者もいた。

清盛の嫡男・重盛である。

高倉天皇の即位は、清盛の念願だっただけに、

その嫡男である重盛の地位が後退するとは、

どういうことだろうか。

除籍入籍 椿ぽたぽた落ちる中  時実新子

その最大の要因は、重盛は嫡男であったが、

母は高階基章(たかしなもとあき)の娘と、

高倉天皇の母・滋子の姉・時子の所生ではなかったことにある。

重盛と対照的なのが、時子の所生の宗盛である。

宗盛は、滋子の猶子となり、その妹、つまり叔母を妻とし、

その間には清宗が生まれていた。

清宗は、重盛と成親の妹・経子との間に生まれた、

清経よりも、年少にもかかわらず、

官位の上で超越し、序列が逆転していた。

五円玉よりも尊い五百円   新家完司

こうして高倉天皇の即位を契機として、

時子所生の子達の地位が上昇し、

重盛やその子たちの地位が後退することになった。

これは、重盛の嫡男の座を脅かし、

嫡流と庶流の交代が起こりかねない事態である。

これにより、重盛はさらに後白河へ接近し、

院近臣の中心人物・藤原成親との連携を、

強化する動きをみせている。

つまり、重盛と時子の子たちとの間には・溝が存在し、

それが対立に発展する可能性もあった。

抜けない棘忘れよう忘れよう  杉谷佳子

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   重盛          宗盛

「重盛と宗盛ー人物像」

『平家物語』は、有能な重盛と無能な宗盛と、

両者を対比して描いているが、これは事実ではない。

宗盛の官位昇進過程をみていくと、

仁安2年(1167)に宗盛は、

実務能力を必要とする参議に就任している。

もし宗盛に実務能力がなく、

『平家物語』にみえるような無能な人物であったならば、

公卿昇進の過程は、

実務能力を必要としない非参議従三位となるはずである。

ワンタンの皮で事実を覆っても  岩根彰子

しかし、宗盛は参議という、

実務能力を伴う昇進コースをとっている。

このことから宗盛の無能説は否定され、

能吏としての顔も見えてくる。

さらに、嘉応元年(1169)に宗盛は平野祭の上卿を務め、

その実務能力を発揮している。

重盛は、保元・平治の乱における戦功により、

官位昇進を果たしたが、

一方の宗盛には、

実務能力による官位昇進の道が選択されていた。

『平家物語』で宗盛が、無能な人物として描かれた背景には、

平家滅亡の責任を、

宗盛の優柔不断な性格に負わせるねらいがあったのだろう。

微調整している秋の鍵かっこ  永原潤子

拍手[2回]

その紐を引くと雷落ちますよ  西田雅子

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伝説化された清盛の姿

(画面をクリックすれば拡大されます)

雷となって清盛を襲った悪源太義平の怨霊

清盛の生涯は、さまざまな伝説に彩られ、

人々に語り伝えられた。


「清盛ー布引の滝にまつわるエピソード」

時は仁安3年(1168)7月7日。

出家して福原の別荘で暮らしていた清盛は、

名勝として知られる布引の滝へ遊覧に出かけた。

ところがその帰り道、突然空が曇ったかと思うと、

雷が清盛の近くに落ち、

家人の難波経房が雷に打たれて惨死したのである。

お知らせが回るかなしいことばかり  森中惠美子

実はこの雷は、

「平治の乱」で処刑された源義平の怨霊であった。

義平は源義朝の長男で、

「悪源太」の異名を付けられたほどの勇将である。

ここでの「悪」とは、

優れた力量の持ち主に対して、

「恐るべし」という意を表した、一種のほめ言葉だ。

イメージを壊さぬように落し蓋  桑原伸吉

平治の乱でも義平は奮戦したが、義朝軍は敗れた。

義平は潜伏して、清盛の命を狙ったものの、

果せずに難波経房に捕らえられ、

六条河原で処刑された。

処刑される際、義平は処刑役の経房に向かい、

「死後には雷となり、

 清盛からお前に至るまでみな殺しにしてみせよう!」


と言い放ったという。

「悪源太」の異名に違わぬ、気概に満ちた逸話である。

持国天グイッと突き出す股関節  岩根彰子

当時の人々は、雷に打たれた経房の死に様を、

怨霊となった義平の祟りによるものと考えた。

その祟りはなぜ、清盛に降りかからなかったのか。

『平治物語』によると、その理由は、

清盛が身につけていた"あるお守り"のおかげであった。

雷が鳴ると冷酒に切り替える  井上一筒

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空海自筆・金剛般若経開題残巻

清盛は首からかけた袋の中に、

弘法大師・空海の自筆の御経を入れており、

これを振ると雷は、鳴り止んだというのだ。

空海の霊力の加護で、

「清盛は祟りから逃れた」

と信じられていたのである。

それからのことはふれまい明日は晴れ  小林のこ

数々の戦乱を乗り越え、

貴族社会の頂点に登りつめた清盛。

その幸運の源を当時の人々が、

どのように考えていたのかをうかがわせる、

伝説の一コマと言えよう。


コバルトになるまでヘドロに届くまで  山口ろっぱ

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立ちつくすしかなくて立っているのです  河村啓子

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六波羅の自邸で出家のため剃髪する清盛
                      (画面をクリックすれば拡大されます)
(平家物語・「禿童事」)(林原美術館)

清盛、寸白を煩い、その2月11日出家し、青蓮と称す。

妻・時子も出家する。


途中下車尻尾の有無をたしかめる  嶋澤喜八郎

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「清盛倒れる」

仁安2年(1167)2月、清盛は左右大臣を飛び越えて、

律令国家最高の従一位・太政大臣に就任した。

ところが、そのわずか3ヶ月後、

突如、清盛は太政大臣を辞任する。

太政大臣は人臣最高の官職ではあるが、

これといった職務はなく、

摂関以外の上級貴族が晩年に賜る、

名誉職としての性格が強かった。

実権を伴わない官職なら不要であるが、

平家の官位を高めるために、

「肩書きだけは頂戴しておこう」

ぐらいの気持ちだったのだろう。

それからの清盛は、前大相国(しょうこく)として、

これまで以上に、国政に影響力を及ぼすようになる。

死を視野に入れると動きそうな今日  平尾正人

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その清盛が突如病に倒れたのは、

翌仁安3年2月2日のことであった。

「寸白」
(すんぱく)という寄生虫の病気にかかり、

一週間後には「危急」といわれるほどの、

重体に陥ったのである。

六波羅の清盛邸には、後白河の女御である滋子をはじめ、

多くの人が見舞いに訪れたが、回復の兆しは見えず、

死を覚悟した清盛は、妻・時子とともに出家する。

弱点を攻めてくるのは青とかげ  本多洋子

法名は静蓮(じょうれん)のち浄海と改めた。

平家に批判的な九条兼実すら、

「清盛の病気は天下の大事であり、

  万一のことがあれば、国家はいよいよ衰えるであろう」


と日記「玉葉」に記している。

ほらあれが密に溺れた黄昏よ  森田律子

15日には熊野詣に赴いていた後白河上皇が、

予定を切り上げて、清盛を見舞った。

このとき、後白河は近臣に「大赦」を行うよう命じたという。

摂関以外の臣下の病気や出家で、

大赦を行う例はなかったが、

国家の重臣であるという理由で特例とされたという。

そして病床の清盛と話し合い、

5歳の六条天皇を退位させ、

高倉天皇を即位させることを決め、4日後には、

早くも天皇位を継ぐ「践祚(せんそ)の儀式が行われた。

(ここに平家と血縁関係をもつ初めての天皇が誕生した)

黄昏の群れは儀式の帰り道  壷内半酔

出家の功徳か、

はたまた、高倉の即位に安心したためか、

清盛の病状は回復に向かった。

清盛の政治スタイルに、

大きな変化が現れるのはこのころである。

仁安4年、六波羅の邸宅を重盛に譲ると、

摂津国・福原に山荘をつくって隠棲した。

古語辞典心の傷の名をさがす  黒田忠昭

これ以後、日常の政権運営は、

京にいる一門や親平家公卿にゆだね、

清盛自身は必要に応じて上洛し、

政局を収拾すると福原に戻るという政治スタイルを貫く。

中央政界から距離をおくことで、

かえって存在感を高めようとする、

清盛一流の人心掌握術であった。

これからは5度傾いて生きてみる  中嶋智子

もっとも、清盛の福原引退はそれだけではない。

出家して自由になったのを機に、

本格的に「日宋貿易」に乗り出そうと考えたのである。

平家は忠盛の時代から、日宋貿易に携わり始め、

保元2年(1157)に清盛が太宰大弐に就任して以後、

さらに積極的に関与するようになった。

鳥の影一途なものを追っている  赤松ますみ

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それをさらに大規模に推し進めるために、

福原の外港である「大輪田の泊」を修築し、

「ここに宋船を向かえ入れよう」と考えたのである。

宋船を福原まで安全に導くための、

瀬戸内航路の整備も進められ、

貿易船の寄港地となる瀬戸内各港の整備、

「音戸の瀬戸」の開削などが行われた。

前年には厳島神社の造営にも着手していた。

(海中にたつ大鳥居や回廊でつながれた華麗な社殿は、

  この時に造営されたものである)


風の音カーテンコールくりかえす  久恒邦子

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平家物語・「禿童(かぶろ)」から

清盛は仁安三年十一月十一日、五十一歳のとき病に冒され、

延命のためにすぐさま出家し、入道した法名は[浄海]と号した。
    
その効験か、病はたちどころに癒えて天寿を全うする

    
出家の後も栄華はなお衰えを見せなかった。
 
人々が心を寄せ従うさまは降る雨が国土を潤すがごとく、

世間があまねく敬い慕うさまは、


吹く風が草木をなびかすがごとくであった。
    
痛点が笑い出したよ花水木  小川一子

六波羅殿の一家の公達と言えば、

清華家や英雄家さえも、肩を並べ、顔を向けられる者はいなかった。
    
清盛の小舅・
大納言平時忠は、
    
『平家にあらざる者は人にあらず』

    
と豪語した。
    
そのため、誰もが縁故を結ぼうとした。
    
烏帽子の被り方から、衣文の指貫の輪に至るまで、

何事も六波羅風とさえ言えば、世の人は皆これを真似た。


赤黒いもの躙りよる華氏3度  井上

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