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川柳的逍遥 人の世の一家言
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簡単に指の匂いは消せませぬ  岡谷 樹


真田信繁をはじめとする浪人衆が集まった大坂城。
その城内には総大将・豊臣秀頼を支える人々がいた。

「豊臣を支えた人々」




「片桐且元」

浅井長政の家臣の家に生まれ、淀君大野治長とは旧知の仲だった。

若くして秀吉に仕えたが、前半生は際立った功績を立てていない。

所領も摂津茨木1万石に過ぎなかった。
                                   よしみ
秀吉の死後、自邸に家康を宿泊させたことを契機として誼を通じる。

「関が原の戦い」では、西軍につくが本戦には参加していないため、

家康の元へ娘を人質に出すだけで許され大和竜田2万4千石を与えられる。

彼は豊臣方の諸大名や官僚と親しく、大坂城内の事情にも通じているため、

家康の計らいで豊臣家の家老に任命された。以降、

大坂城内と家康との間を取り持つパイプ役として活躍、東奔西走した。


たくさんの把手がついている私  川田由紀子

しかし徳川と豊臣の関係が悪化すると、

双方それぞれに恩義のある且元の
立場は、微妙なものに追いやられていく。

方広寺の再建工事を総奉行として指揮していたために、

家康から抗議を受け、
その報告を大坂城に届ければ、

彼ら豊臣首脳陣に非難の声を浴びるという
板挟みの状況に陥った。
結果、

大坂城内で且元の暗殺計画が持ち上がるに及び、退去を余儀なくされる。


この一件は家康が契機「大坂の陣」を起こす口実となった。

以後、且元は徳川家の武将として大坂城を攻める側に回る。

陽のあたる方にやっぱり豆のつる  山本昌乃

大阪城の本丸が落城した時、

且元は秀頼らが蔵の中に潜んだであろうと悟り、
徳川家に報告している。

結果的に豊臣家滅亡に手を貸す側となった且元だが、

その心中は後悔に満ちていたようだ。

「夏の陣」の終戦から20日後の慶長20年(1615)5月28日、

京の屋敷で突然の死を遂げるのである。60歳であった。

なんとまあ刹那に生きてきたのだろう  清水すみれ



「大野治長」

丹後(京)の地侍の子として生まれる。

淀君の乳母を務めた大蔵卿局の実子で、淀とは同い年にして乳兄弟の間柄。

その関係で秀吉に重用され、1万石の大名となる。

「関が原の戦い」では家康暗殺計画に加わった疑いを持たれ、

止む無く東軍に味方し罪を許された。

その後、大坂城内の政務を主導する立場となり、

片桐且元の追放後はさらに権力を増大させた。

大坂の陣では戦いを避けて講和への道を模索したため、

弟の大野治房真田信繁ら抗議派と対立した。

大坂城落城に際し、千姫を城外へ出して徳川に秀頼助命を嘆願するが、

聞き入れられず秀頼と運命をともにする。

B面の舌がときどき 縺れだす  桑原伸吉



「大野治房」

生年不詳。大野治長の弟で母は同じく大蔵卿局

兄弟で秀吉・秀頼に仕えた。

兄と異なり、豊臣家の威信を重んじて徳川家には断じて屈せず、

決戦を主張する「主戦派」の代表格。

真田信繁毛利勝永らと連携し、「冬の陣」では船場方面に陣取り、

治長から撤退命令が出されるも無視して戦う。

「夏の陣」でも紀州攻略や樫井の戦い、岡山口など多くの戦いに参加。

豊臣譜代の将として意地を見せ、秀忠の本陣に奇襲して窮地に陥れた。

撤退後、本丸から秀頼の遺児・国松を連れて脱出したが、

徳川方に捕らわれて斬首された。

糸くずを取った背中が行ったきり  伊藤玲子

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