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川柳的逍遥 人の世の一家言
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倉庫から出す頑丈な雨の束  井上一筒



「九度山町の遠望」
九度山西方に位置する雨引き山の山道から九度山の市街を一望する。
写真中央、密集地の中ほどに真田庵がある。写真左は紀ノ川。

そらみみになるまで風を聴いている  清水すみれ



「真田庵」
昌幸屋敷跡に建てられた真言宗の寺院。寛保元年(1741)に大安上人が
堂宇に地蔵菩薩を安置したのが創建とされる。
本堂は八棟造りと呼ばれる城郭風の形状をしている。

あの時のあの三叉路に戻りたい  美馬りゅうこ



「真田昌幸の墓」
左の碑が昌幸の墓。周囲には信繁や家臣たちの供養碑も残る。

涙粒昇華せぬまま綴じる章  上田 仁



「真田古墳」
柵で囲まれた石組みの穴。遠く大坂城まで通じていて、
信繁はここを通って大坂城に馳せ参じたとの伝承が残る。
実際は、古墳時代に作られた横穴式石室。

糸が揺れて鳥になる魚になる  酒井かがり



「真田の井戸」
信繁の屋敷跡とされる場所に残る真田家ゆかりの井戸。

墓標など建てず穴だけ掘ってくれ  くんじろう



「慈尊院」
空海を訪ねてきた母が女人禁制の高野山に入れずここに滞在。
その死後、空海が建立したのが慈尊院。
信繁が将棋をさしにここを訪れたとの伝承も残る。

引き出しにあなたを開ける鍵がある  桑原伸吉



「丹生都比売神社本殿(にうつひめじんじゃ)
九度山から高野山の参詣の道にあり、参詣客の多くはここに立ち寄った。
蓮華定院の和尚に、この神社の祭礼に誘われた信繁が、
体調が悪くて断った手紙が残っている。



紀伊国一ノ宮で高野山との関係も深い丹生都比売神社には、
国宝の神宝や重要文化財指定の建造物が残っている。
写真の右から二番め丹生都比売神社本殿の軒下にある「象」の意匠。

アルファ波のカプセル貰う秋の夜  河村啓子



「善名称院」
真田昌幸・信繁が関が原の戦い後蟄居した屋敷跡に建てられた寺。
境内には昌幸の墓や真田宝物資料館がある。

不都合な過去などきいて下さるな  瀬川瑞紀



「蓮華定院」
昌幸・信繁が最初に蟄居した高野山の寺院。

六文銭が至るところに見られ、真田家墓所がある。

女郎花むかしの事は口にせず  新川弘子



「奥の院」
壇上伽藍とともに高野山の二大聖地。約2kmの参道には、織田信長や
武田信玄、豊臣家などの名だたる戦国武将の墓碑、供養碑が立ち並ぶ。

足して引くそして苦味を残さない  嶋沢喜八郎



「真田淵」
丹生川(にうがわ)との合流点近くに位置する紀ノ川の淵。
信繁が息子・大助とここで水練や馬の調練をしたと伝わる。

残念ながら今日はこんな日おろし金  森田律子



「真田紐」
太い木綿糸で平たく厚く編んだ組紐。
 チベットの山岳民族が家畜の獣毛を染め腰機を用い織った細幅織物が
仏教伝来と共に海路日本に入ってきたものが、停泊地の沖縄地方では、
ミンサー織りになり、本州では綿を草木で染め織った細幅織物となり
後の「真田紐」になったと言われている。
真田紐は真田打ともいい、ひらたく組み、または織った木綿の紐のこと。
九度山に蟄居していた昌幸・信繁父子とその家族が作製し、
生計を立ていたという俗説がある。

貫いた道とくるぶし自負してる  三村一子

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