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川柳的逍遥 人の世の一家言
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その宴船着場まで連れてゆく  酒井かがり


信繁らが暮らした九度山の庵(イメージ)

「九度山脱出」

九度山で真田昌幸が死ぬ三ヶ月前の慶長16年(1611)3月28日、

家康は二条城で豊臣秀頼との会見に臨んだが、これは母親の淀や

大坂城首脳陣に拒否されており、ようやく実現にこぎつけた格好となった。

形式はどうあれ、この会見は家康の呼び出しに秀頼が応じたものであり、

豊臣が徳川に臣従したと視る者は多かっただろう。

そして、二条城会見から3年後、天下を揺るがす大事件が起きた。

世に名高い「方広寺鍾銘事件」である。

そのことに触れると手鏡が割れる  笠嶋恵美子

戦の口実を探していた家康は、「秀頼は駿府と江戸へ参勤させる」

「淀を江戸詰め(人質)とする」「秀頼は大坂城を出て他国に移る」

という3つの厳しい条件を提示した。

案の定、豊臣首脳陣は拒絶反応を示し、

そのうえ片桐且元を「徳川に内通している」として追放する。
         
家康は豊臣家による挑発と受け止め、宣戦布告を行なった。

こうして徳川と豊臣は手切れとなり、ついに「大坂の陣」が開幕する。

地球儀を反転 風は六角形  佐藤正昭


   浅野長晟

浅野長政の二男。幼少のころから豊臣秀吉に仕えたが、関が原後
徳川の家臣に。兄・幸長が嗣子なく死去したため、家督を継いで
紀州藩主となる。

大坂城内は俄かに慌ただしくなった。

慶長19年10月2日、豊臣家は秀吉が残した豊富な財力を活かして兵糧や

武器を買い入れ、つながりが深い大名や全国に潜む浪人たちに使者を送り、

兵を集め始める。

浪人衆はたちまち10万人近くまで膨れ上がった。

そして九度山の信繁のもとにも使者がきた。

支度金として黄金200枚、銀30貫(現在の価値で約9億円)で大坂城内へ

入ってくるよう頼まれたのである。

山中に果てる覚悟もしていた信繁には、願ってもない話だった。

早速、上田にいる父昌幸の旧臣たちに参戦を呼びかけ、兵を雇うと、

自らは大助らを引き連れ浅野長晟の監視下にある九度山脱出を試みた。

今日こそはと今日あたりとが逢うたので 雨森茂樹


九度山から大阪城へのルート

あらかじめ高野山中に目印をつけておき、これを目当てに脱出した。

先に家臣を出発させた後、高野山で談笑中に厠に立つふりをして脱出した。

周辺の庄屋を宴に誘い、酔いつぶして脱出した。

昌幸の法要と油断させ、その隙に乗じたなどの、逸話が残るが、

実際ところは不明である。


騙しや強行突破というのは、逸話の域を出ない。

おそらくは夜陰に乗じてといったところであろう。

信繁にとって幸いしたのは九度山が紀伊という国にあったことである。

天下が統一される前の紀伊には大きな大名はおらず、国人衆が割拠。
     ねごおろ さいか
なかでも根来、雑賀衆は権力者に従わず、

信長秀吉をさんざん苦しめた存在であった。

目を閉じてピリオドを打つ長い日々  三村一子

浅野氏が拠点を築いた和歌山は雑賀衆の本拠であった地で、

浅野氏は新たな秩序の下に年貢の強制収集などを行い、

国人衆たちからは反発を招いていた。

ということから監視を任されていた庄屋や豪農たちは、

信繁の脱出に目をつぶったという考え方が、正解ではないだろうか。

またそのあたりの経緯を信繁は読んでいたことだろう。

まさか浅野氏も黙認したとは思えないが、後を追っても険しい山中から

信繁一行を探すのは困難だったはずである。

鬼さんこちら誰も本気で探さない  下谷憲子

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