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川柳的逍遥 人の世の一家言
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それはもう言いようのない馬鹿笑い  木戸利枝




水戸藩主徳川斉昭・平戸藩第藩主松浦静山・信州松代藩主真田幸貫




家康ー戦国武将を表現した狂句





            甲 子 夜 話

松浦静山の随筆『甲子夜話』(かっしやわ)の中に有名な三人の戦国武
将の性格をを表現した次のような文章がある。

『夜話のとき或る人の言ひけるは、人の仮託に出づるものならんが、
 その人の情実によく適へりとなん。
 郭公を贈り参らせし人あり。されども鳴かざりければ、
「鳴かぬなら殺してしまへ時鳥  織田右府」 信長
「鳴かずとも鳴かして見せう杜鵑  豊太閤」 秀吉
「鳴かぬなら鳴くまで待つよ郭公  大権現様」 家康
 このあとに二首を添ふ。
 これ憚るところあるが上、もとより仮託のことなれば、作家を記せず。
「鳴かぬなら鳥屋へやれよほとゝぎす」
「鳴かぬなら貰つて置けよほとゝぎす」
(「時鳥」「杜鵑」「郭公」は、全部ほととぎす)



翌日の指に残っている火照り  きゅういち









明治天皇
の曾祖父である松浦静山は、47歳となった文化3年(1806年)
に三男・(ひろむ)に家督を譲って隠居し、以後82歳で死ぬまでの
35年ほどを武芸と文筆活動など、好きなことに没頭した。
文筆活動においては、自ら活字を作り、印刷を試み、随筆「甲子夜話」
「日光道之記」「百人一首解」「江東歌集」を著している。
上記の「甲子夜話」は、幕府の儒官、大学頭家の林述斎から
「個人の善業、嘉言はこれを記し後世に伝えるべきである」
と進められたもので、文政4年(1821)11月「甲子の夜に執筆を開始」
したことから名付けられたという。
他には詩歌・書画を残した他、当時の文人墨客とも深く関わり、化政文
化をリードした。
故に「ほととぎすの句」は静山の作ではないかとも…思われていた。



両の手の器ぐらいが丁度いい  津田照子



ところが「ほととぎす」の三首は、静山よりも23年早く生まれた江戸
時代中期の旗本で勘定奉行・南町奉行を務めた根岸鎮衛(やすもり)が、
佐渡奉行在任中の天明5年 (1785) ~文化11年 (1814) 迄の30年間に
亘って書き溜めた世間話の随筆集『耳嚢』(みみぶくろ)に,紹介されて
いるのである。ということは、三人の性格を表現したものとして、よく
知られる「ホトトギス三首」は、いつ、誰が、詠んだ歌なのか……?
不明のままなのである。
(耳嚢又は耳袋=同僚や来訪者、古老から聞き取った武士から町人層ま
で身分を問わず、様々な人々についての事柄の珍談・奇談・怪談が記録
したもの)



テトラポットの角に降りつもる誤解  酒井かがり





         耳 嚢




根岸鎮衛『耳嚢』には、次のように紹介されている。
『古物語にあるや、また人の作り事や、それは知らざれど、信長、秀吉、
 恐れながら神君ご参会の時、卯月のころ「いまだ郭公を聞かず」との
 物語いでけるに、信長、
「鳴かずんば殺してしまえ時鳥」  
 とありしに秀吉、
「なかずともなかせて聞こう時鳥」  
 とありしに
「なかぬならなく時聞こう時鳥」  
 と、遊ばれしは神君の由。
 自然とその温順なる、又残忍、広量なる所、
 その自然をあらわしたるが、紹巴(じょうは)もその席にありて
「なかぬなら鳴かぬのもよし郭公」 
 と、吟じけるとや。
これで三首の発祥が連歌の会の座興とまでは分る。
(里村紹巴とは、本能寺の変で、明智光秀が亀山城を出陣する
数日前に張行した連歌の会(愛宕百韻)の参加者の一人)



理性一番喜怒哀楽を削除して  矢沢和女



 【おまけ】


野球の野村監督が有名にした名言は静山のコトバがある。
「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」である。
 意味は=心形刀流免許皆伝・松浦静山の『常静子剣談』この一文にある。
剣道では試合後の反省によく用いられる教えで、負けた時には必ず理に適わ
ない原因がある、というのである。
「イカサマ」の語源。
イカの墨で字を書くと1年くらいで文字が消えてしまうことから、
と、甲子夜話のネタで静山が発信したコトバ。



おい不死身 右が二重になってるで  酒井かがり
 








「ここから信長・秀吉・家康の性格のエピソード」



「なめかたで織田ほど勝った者はなし」

「なめかた」とは銭を投げて、裏が出るか表が出るかの博打。
信長は出陣に際し、熱田神宮で銭の裏に賭け、裏と出たので勝てると踏
み、大敵に挑んだ。つまり信長は、かなり験を担いだ人だったようだ。
 政略のため ”マムシ” と恐れられていた隣国美濃の斎藤道三の娘、濃姫
を妻に娶った。道三にしてみれば可愛い娘の婿だが、そこは戦国時代。
やがて道三が倅の義龍に殺され、その義龍が病死すると、信長は棚ぼた
で美濃を手中にした。



サイの目は起死回生のピンである  松浦英夫



とはいえ信長はまだまだ弱小の国主。
駿河の今川義元は5万の大軍を仕立てて、信長を軽く蹴散らかそうと軍
を差し向けてくる。
信長は自領の尾張に入ってきた今川軍が、織田の支城を次々に落してい
くのを「わざとされるまま」にして、今川軍が桶狭間の谷間に進み隊列
が帯のように長く伸び切ったところを見計らい、豪雨をついて、僅かの
兵を率い稜頂より一気に駆け下り、混戦のなか義元の首級を挙げた。
信長にとって、桶狭間は一世一代のイチかバチかのデビュウー戦だった。



それはもう目の前にある三途川  黒田忠昭



「すべて計算 秀吉の人たらし」


織田家につかえ、美濃を攻略するときのこと。
秀吉は、敵の武将を味方につけることに成功した。
しかし信長は、その武将を殺してしまえと命じる。
ふつうの人間なら、武将を殺してしまうだろう。
しかし、秀吉はそうはしなかった。
武将に「すぐに逃げられよ」といい、刀を捨てて、万が一の時は自分を
人質にするよう申し出たのだ。
これは、単に秀吉の人の良さをしめすエピソードではない。
秀吉は「武将は感激してわしの評判を美濃で広めるだろう」と、考えて、
逃がしたのだ。
秀吉の人の良さは、「深い計算」にもとづいていた。



点滴のチューブの先の花結び  美馬りゅうこ



「タヌキ親爺の本領発揮」


本能寺の変以降、織田家の後継者を決める「清須会議」からも排除され
てしまうなどの、豊臣秀吉にずっと先を越されっぱなしの徳川家康
すべてが秀吉の思惑通りに動いていくのを、家康は穏やかではなかった
はず。
秀吉が信長の長男・信忠の子である三法師を推し、柴田勝家が3男の
推す中、家康は、2男の信雄が家督を継ぐのが筋だと考えていた。
勝家側から味方につくように働きがけがあったとき「反秀吉」という点
で一致しながら、結局勝家に乗らなかったのは、一つにこの後継問題が
あったのである。
また秀吉と勝家が争って、互いに消耗することは、自分にとってプラス
だという計算があったのだろう。
家康は自らの力を温存しつつ「賤ケ岳の合戦」に対しては静観を決め込
んだ。



ハニワ顔そんじょそこらの目ではない  森 茂俊



家康は、戦況や秀吉の動きを細かく把握していたのだ。
そして秀吉勝利の報がもたらされると、その祝いの品として天下の名品
「初花肩衝(はつばなかたつき)」を贈った。
茶の湯好きの秀吉は大喜びし、家康が、秀吉と勝家両方に距離を置いて
いたことはこれによってチャラになる。
表面上はこうして秀吉と友好的なふりを装いながら、一方で北条氏直
娘の督姫を嫁がせ、関東を統べる北条氏との同盟を結ぶなど、家康の
「タヌキ親爺」ぶりはさすがである。



聞き上手話し上手にしてあげる  ふじのひろし










「最後に女性の好みから三人の性格を診断」


信長女性にそれほど関心はない。
秀吉容貌と身分の高い女性が好きな女たらし。
家康容貌は二の次で健康的な側室を選ぶ。



思い出し笑いあなたが一位です  市井美春

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凡人なりに好きな色を足してゆく  山本昌乃




      信 長              家 康




「エピソード」


武田信玄徳川家康が三方ヶ原で戦う前のこと。
「あなたが信玄にかなうはずはないから、遠江を捨て三河に戻れ」
という内容の手紙を信長は家康宛てに送っていた。
その一方で、あの信長が信玄へ次のような書状を出している。
「家康が、信玄公に対して無礼を働いたら、忠告をいたします」
というものである。
何という低姿勢か「美濃のモンスター」ともいわれた信長が、このよう
な外交戦略をとらざるをえないほど、信玄は恐れられていた。




私は以下省略の中にいる  藤井康信




「家康の壮年時代」ー信玄式戦い方




信玄はどうしてあれほど強かったのか
その秘密は「人を動かす力」と知った家康は、以後、信玄の考案した
軍法、つまり戦場で兵を操る方法をつぶさに研究し「武田信玄条目」
著した信玄に習って『徳川家康軍法』を編み出した。
ー先陣よりも前に、手柄をたてようとしてはならない。
ー命令がないのに、勝手に動いては成らない。
ー喧嘩口論は固く禁ずる。




失った首をさがしにゆく途中  小池正博




信玄のやり方を学んでのち、家康は変わった。
1584(天正12)羽柴秀吉と戦った「小牧・長久手の戦い」で家
康は,秀吉の大軍に取り囲まれた。
しかし、じっと耐えて待ち続け、焦った秀吉軍が動いたところをすか
さず叩いて勝利をものにしたのである。
1600年(慶長5)の「関ヶ原の合戦」もそうであった。
決戦前夜、家康は、城に籠る石田三成の前を素通りして、大坂へ向かう
かのように装って敵をおびき出し、一気に決戦を挑んで勝利したのも、
信玄式戦法である。




記憶とや鍋にいっぱい羊雲  山本早苗




        餅をこねる秀吉




「小牧長久手の戦い」

信玄の死後、家康は武田の旧臣を取り込み、喉から手が出るほど欲しか
った武田の強力な戦闘力を手に入れた。
今川・武田という2つの持っていたものを手に入れ、西の濃尾平野へ押
し出す機会も得られた。
しかし、そこに現れたのが、羽柴秀吉である。
秀吉は家康と信長の子・信雄(のぶかつ)に対する兵を起こし1584
(天正12)「小牧長久手の戦い」が起きた。
信長が本能寺に倒れて2年後のことである。
秀吉は大軍で家康を圧倒できると考えていた。




うしろからひやりと肩を叩かれる  宮井いずみ




大軍で囲まれたときの戦い方は、一つしかない。
まず、大兵力が広域に分散する寸時を待つ。
その寸時、自軍のほぼ全軍を敵の一部にぶつけて襲撃し、さっさと引き
あげる。津波のような作戦である。
その作戦はものの見事に成功し、秀吉方の多くの武将を討ち取った。
臨機応変、自由自在に大軍を動かし、敵を翻弄して自分に有利な
状況をつくりだす戦いぶりーそれはあたかも、あの信玄が、家康に乗り
移ったかのような見事なものであった。




戦場で人間ポンプ微笑せよ  まつりべきん




       小牧長久手の戦い




ここで秀吉は、どんなことがあっても、家康の首を取るまで戦うべきで
あったが、その障害となったのが、近江の長浜から岐阜の辺りで起きた
大きな地震だった。
秀吉の前線基地が崩壊し、家康と戦っている場合でなかった。
これを見た家康は、素早く外交交渉を仕掛け、一回勝った状態で秀吉と手
を打ち、共同歩調をすすめることになった。




ご破算にしようと透明になった  柴田桂子




秀吉家康は、光秀を加えた3人が信長の配下として「姉川の戦い」
殿(しんがり)の名乗りをあげて以来の対面である。
秀吉の生まれは、1536年、家康は1542年生まれ。
6歳違いで、当時、木下藤吉郎を名乗っていた秀吉は15歳で、
今川家・松下之綱に仕官している。
が、その時、家康は9歳で今川の人質の身であった。同じ屋根の下に暮ら
していた2人だが、家康は人質とはいえ、秀吉とは身分の違いで、擦れ違
うことがあっても言葉を交わしている機会はなかった。
つぎに、秀吉は17歳で信長に仕え、23歳で「桶狭間の戦い」に従軍し
ているが、その時、家康は敵方今川氏からの初陣、やはり物見の立場で顔
合わせはない。
運命的にも永劫、タヌキ親爺とコマ鼠の相性は良くなかったようだ。




あめ色の玉ねぎ成田屋のにらみ  藤本鈴菜





  景観も抜群の武田家の菩提寺・恵林寺
境内の一角にある墓に信玄が眠る




「三方ヶ原の戦い」の4ヶ月後、突然、信玄が死んだ時、家康は喜ぶ家
臣たちを諫めて、次のような名言を語っている。
『信玄のような武勇の大将は古今稀である。自分は若い頃から彼を見習
 いたいと思ったことがある。信玄こそ、我らにとって武略の師といっ
 てよい。隣国に強敵があれば特に幸いである。
 なぜならこちらは油断、怠りなく励み、またかりそめの仕置にも心を
 遣うゆえに政治も正しくなり、家も整う、もし隣国に強敵がなかった
 ら、味方は武力の嗜み薄く、上下ともに己を高く思って恥じ恐れる心
 を持たぬため、だんだん弱くなるものである。
 信玄のような敵将の死を、味方が喜ぶ理はない』と。




心臓の突っかい棒を外される  笠嶋恵美子




「この時生まれた家康の名言」 『東照宮御遺訓』


『人の一生は、重荷を負て遠き道をゆくが如し、 いそぐべからず。
 不自由を常とおもへば不足なし。 こころに望みおこらば、困窮したる
 時を思ひ出すべし。堪忍は無事長久の基 いかりは敵とおもへ。
 勝事ばかりを知て、まくる事をしらざれば、害其身にいたる。
 おのれを責て人をせむるな 、及ばざるは、過ぎたるよりまされり』

≪人生とは、重い荷物を背負って長い道を歩いていくようなものだ。
 急ぐ必要はない。不自由が当たり前と考えれば、不満は生じない。
 心に欲が生じたときは、苦しかったときを思い出しなさい。
 我慢をすることが無事に長く、安らかでいられる源で、怒りを敵と思
 いなさい。成功のみを知り、失敗を経験したことがない者に、害は降
 りかかるもの。自分の行動を反省し、人の責任を責めてはいけません。
 足りない方が、やりすぎてしまったものよりは、優れている≫




流れ星おわらの風のいまを弾く  前中知栄




    伝家康の手形 (輪王寺蔵)




「名言の真実」


上記の名言ー信長・秀吉の後塵を拝しながら、チャンスが来るのをじっ
と待って最後に天下人の座を得た家康(タヌキ親爺)がいかにも言いそ
うな言葉である。が、
実はこの名言は「この印籠が目に入らぬか」でお馴染み天下の副将軍の
黄門さまこと水戸光圀による訓示なのだ。
ウソつきの張本人は、明治初期の旧幕臣、池田松之助という人物である。
維新後の新政府が、徳川幕府を朝敵扱いすることに反感をもった彼は、
「このままでは権現様の名に傷がつく」と、徳川家の名誉回復に命を捧
げる決意を固めたのであった。
そして、家康公御真筆と銘打った「ありがたい遺訓」をでっちあげ家康
の威光を世に示そうと、私財のすべてを投じ名言・名調の書写に励んだ。




ほんのりと海馬の裏が赤くなる  蟹口和枝




「家康の生年のウソ」


「家康どうする」のドラマのワンシーンで「わしはトラの年、トラの日、
トラの刻に生まれた武神の生まれ変わりじゃ!」と気勢を上げた家康
った。が、一つサバを読んでいた。
「実は、家康は、トラ年ではなく、ウサギ年の生まれ」
と、家康の母・於大の方と父・松平広忠が暴露する場面がある。
これについて歴史家の磯田道史氏は、
「家康が天文11年12月末の生まれだとまずい証拠物がある。
家康は竹千代と命名された。父・広忠が連歌会で
<めぐりは広き園の千代竹>と詠んだのにちなむ。
この時の連歌会の記録の日時は、天文12年2月26日夜。家康は大事
な嫡男、天文11年生まれなら連歌会の日まで2ヵ月も命名されなかっ
たことになる」と、述べている。
『徳川家譜』などは家康の母・於大が
「夢に十二神の内(寅の方位を守る)真達羅(しんだら)大将が袖に入
 るのをみて懐妊した」とまで記しているのだが…。
(これらは家康がウソの本人ではないが、後年家康がつく嘘もあります)




閻魔さま嘘三つ程つきました  石田すがこ

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きゅうりならとうに曲がっているころだ  米山明日歌





        「織田信長公相撲観覧之図」
1578年(天正6)信長が安土城にて相撲を観戦する。



「本当の織田信長とは」
「尾張の大うつけ」といえば、織田信長のこととすぐわかる。
「「尊大・厳格・短気・せっかち・神仏を信じない・造反は許さない・
天辺志向・大胆不敵」のイメージがつきまとう。
だが本当の信長はどうなんだろう。
彼がまだ10代のころのこと。普通よりも長い槍をつくり、新しい戦法
を発明した。これは、信長が天才だからできたのだろうといわれてきた。
しかし、実際は信長は、寝る時間や食べる時間を惜しんで研究し、周囲
からうつけ(からっぽ)といわれても我慢し、この長い槍の戦法を完成
させている。実は、信長はとても真面目で、研究熱心で我慢強い努力家
だったのである。 加えて私的な時間をみれば、
① 睡眠時間は短く、早朝に起床。② 酒は飲まず、食事は控えめ。
③ 極めて綺麗好き。④ ユーモア性も慈悲の心をも持ち、信頼をした
  友や部下には、とことん信を貫くことで応えた…。
それは家康と信長の長い協力関係が証明している。
反面、裏切りや立てつく者に対しては、断固冷酷になれる人物だった。


黒は黒と言い切る男の太い眉  山崎武彦





   三方ヶ原の戦いに向け鎧をつけた家康



「家康の壮年時代」 家康と信長 & 信玄


徳川家康は生涯に3度「もう死にたい」と考えたことがあるというのが、
今回の大河ドラマの主テーマ「どうする? 家康」である。
その一つが「三方ヶ原の戦い」だ。
1560年(永禄3)家康19歳のとき、ついに転機が訪れた。
今川家の総帥・義元桶狭間の合戦で尾張の信長に討ち取られてしまっ
たのである。
今川家の軛(くびき)を離れた家康は、故郷三河に戻り松平の惣領とし
て統治を開始した。
信長とは、同盟を結んで背後を固め、勢力を東のと遠江にまで広げた。
そして1570(元亀元)家康は、ここに移り住み堅固な城を築いた。
漸くにして、一国の主となり、我がものとすることができた城である。


八起き目の風にゆっくり立ち上がる  宮原せつ


ところが…。そんな家康を脅かす巨大な影が現れようとしていた。
戦国一の智略と武勇をもつと恐れられた武田信玄である。
信玄の所領は、甲斐・信濃・駿河あわせて百万石。
『人は城 人は石垣 人は堀』
その言葉通り、城や石垣に頼らず、ただその人望と統率力によってのみ
幾多の戦いを勝ち抜いてきた名将・武田信玄。
その旗印は「風林火山」である。
  疾(はや)きこと風の如く 
  徐(しず)かなること林の如く
  侵掠(しんらやく)すること火の如く
  動かざること山の如し
百戦錬磨の騎馬武者たちを主力とする武田軍団は、戦国最強の名をほし
いままにしていた。


人間が来るとざわめく山の木々  新家完司





      武 田 信 玄



この年、将軍・足利義昭の要請を受けた信玄は、京の都に上り、当時、
畿内を支配していた信長を打ち砕くべく行動を開始した。
信玄が京へ上ろうとする途上には、信長の同盟者・家康の領土が邪魔
な小石のように立ち塞がっている。
<まずは、この目障りな家康を叩きつぶす>
それが信玄の当面の目標となった。
家康は同盟者の信長に相談をした。
勇猛果敢な信玄の行動を、信長は家康より知っていた。
大井川を渡って堂々と遠江に侵入する信玄に対し、信長は家康に
「危険だから岡崎に退くように」勧めた。
<家康が信玄にかなうはずはないから、浜松を捨て三河に引き籠って時
 期を待て> と、いうのである。


紙を切るだけにしときやそのナイフ  高野末次





        浜 松 城



<やっとの思いで得た遠江国を捨ててなるものか>
そう思った家康は、信長の忠告を無視した。
<浜松を捨てるならば、刀を踏み折って武士を止める>
しかし、信玄は、家康の想像をはるかに上回る恐ろしい敵だった。
家康が従わないとみるや、無理攻めはせずに時間をかけて、家康方の武
将たちの切り崩しにかかったのである。
信玄は、家康の配下にある武将たちに次々と書状を送って、領地を与え
ることを約束し、自分の味方になるよう誘いをかけた。
「我らも信玄に属し、一族郎党の命をまっとうすべし」
と、家康の領土だった奥三河の武将・奥平家の記録に書かれている。
信玄の名声に靡いた武将たちは、若輩の家康を見限って相次ぎ離反した。
1572年(元亀3)を迎えるころには、家康の領土のおよそ二割が、
信玄に奪われ、兵力差は開く一方となった。


晴れと呼び曇りと返す磨りガラス  高橋 蘭


家康はこのころ領内の神社・小国神社に次のような願文をだしていた。
「敵は多勢 我は無勢」
ーかくなるうえは、この社の神力に頼るのみである。
兵力に劣ると知りながら、信玄を迎え撃たなければならない家康。
戦う前から、すでに家康は、信玄に追い詰められていたのである。
1572年(元亀3)10月3日、信玄は麾下の全兵力をあげて甲府を
出発。家康の領土に向け、進軍を開始した。
「ついに来た!」
浜松の城に緊張が漲った。


雨を編む何か信じていなければ  赤石ゆう


このとき信玄はすでに家康の領土の地形を知り尽くしていた。
もはや家康の領土は、信玄にとって勝手知ったる自分の庭のようなもの
であった。
11日、只来城陥落。
12日、天方城・飯田城・各和城陥落。
その矛先は、家康の居城・浜松とは目と鼻の先にある二俣城へと向けら
れた。二俣城が信玄の手に落ちてしまえば、家康の本拠・浜松城は支え
となる城を失って、裸同然になってしまう。
まもなく<二俣城危うし>との報が届くと家康は
「信長の援軍はまだ来ないのか」と、喚き続けた。
だが信長は信長で、おいそれと家康に援軍を送れない事情があった。
古い室町幕府に代わる「新たな政治体制」を築き上げようとする信長に
対し、将軍足利義昭をはじめ信長に反対する大名や宗教勢力が次つぎに
挙兵。四面楚歌となった信長は、合戦に明け暮れ、家康を省みる余裕は
なかったのである。


追伸に次つぎ雲を生んでいる  太田のりこ





           三方ヶ原の戦い図 (歌川芳虎)
左・黒馬に家康 中央・栗毛に松平忠次 互いに槍を交わしての決戦図



「三方ヶ原の合戦ー本番」




元亀3年12月22日午後2時。
家康軍1万1千と信玄2万5千遠江三方ヶ原の台地で対峙していた。
もはや蛇に睨まれた蛙も同然の家康だった。
睨みあうこと、およそ2時間。
元亀3年12月22日午後4時。三方ヶ原合戦の幕が開いた。
しかしその勝敗は、戦いがはじまる前に決していたも同然であった。
信玄はーー、
『きびしく陣を整えて、鼓を鳴らし、旗を揚げ、堂々正々として大山の
 圧すがごとく静々と進み来たる』 『武徳大成記』
一方、家康はーー、
『神君歯を切(くいしば)り、沫(あわ)を噴き、衆士を激励して騎を
 廻して反撃たもうこと三,四度、吾衆戦い疲れて支うべからず』
と武徳大成記の見聞にあるように、奮闘むなしく、家康軍は総崩れにな
っていった。
午後6時、戦いは終わった。 結果は家康軍の惨敗である。


空き缶のところどころに負傷兵  峯島 妙


あまりといえば、あまりにも惨めな敗北である。
信長の予想は的中した。
死を覚悟した家康に家臣たちは、主君を死なせるわけにはいかないと、
夏目次郎左衛門が家康の身代わりとなって、無理やり家康の乗った馬
を浜松城に蹴飛ばしたという。
馬は家康を乗せて、無事浜松城に向かったが、身代わりの夏目次郎左
衛門は討ち取られた。


いつだって身代わりになる落ち椿  村山浩吉




      家康のしかめ面
「三方ヶ原で負けた時のこの儂の姿、信玄に対する恐怖に震える体、
 歪んだ顔を、絵に写しとっておけ」




その4か月後の1573年(天正元)突如信玄は、伊那の駒場で倒れた。
信玄53歳である。家康は32歳だった。
しかし家康は、それを喜んではいなかった。
ーーあの、三方ヶ原での屈辱、そして恐怖。
負けた自分の愚かさ、そして甘さ。それをもう一度噛みしめておかない
限り、自分はまた同じ失敗をする……。
「三方ヶ原の合戦」の敗北で家康は多くのことを学んだ。
「勝つことばかり知って 負けることを知らないのは身の破滅である」
この理を肝に命じた家康は絵師を呼んだ。
絵師に家康は「屈辱と恐怖の瞬間を忘れないようにとしかめ面の表情」
の絵を描かせたのである。


言い訳はしない男の意地がある  楠本晃朗


「その後」


信玄の後を継いだ武田勝頼は、家康の遠州高天神城を奪った。
その代わりに家康は、、東三河の長篠城を攻略した。
1575年(天正3)5月、「長篠の戦い」では、織田・徳川の連合軍
が3千挺の鉄砲を用意し武田の騎馬軍団を殲滅した。
その後、遠州や駿河に入った家康は、武田支配の駿河にも侵入し駿府を
無抵抗のまま占領した。
信長の協力がなかったら、おそらく家康は、勝頼との抗争すら不可能だ
ったであろう。
三方ヶ原の戦いから10年後、武田家は滅亡した。
この時、家康は禄を失った武田家の家臣たちをそっくり召し抱えた。
「人は城 人は石垣 人は堀」
その信玄のやりかたを学ぶには、信玄を知る家臣たちを自分のものにし
てしまうのが早い。そう思ったからであった。


お手玉で遊ぶ十指の笑い声  柴辻踈星




        餅 を 搗 く 信 長




こうした強力な軍事同盟があったから、信長の命令で1579(天正7)
8月29日、武田と内通していたといわれる正妻築山殿を遠江の高塚で
殺害し、同年9月15日には、家康がことのほか愛していた息子信康
切腹自害させなければならなかったわけである。
家康38歳の時であった。
それから3年後の1582年(天正10)本能寺にて織田信長が没した。
これをもって23年に亘る家康と信長の友好関係はおわり、
この後の家康の運命も変わった。


明日という強い味方がいてくれる  津田照子

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「目的地周辺」ですって言ったよね  須藤しんのすけ





            天 下 餅


「織田がつき羽柴がこねし天下餅 座して食らうは徳川家康」
天保8年(1837)「道外武者御代の若餅」として
浮世絵師・歌川芳虎が描いた風刺絵。

先人が苦労して築いたものを、家康がやすやすと手に入れた経緯を風刺
したものである。
この絵は、幕府に対してきわめて不遜な意思表示として、芳虎と版元は
手鎖50日の刑罰を受け、さらに版木は焼却処分とされたが、この一枚
の絵「道外武者御代の若餅」は、密かに残された。


おめでたいことなどないがおめでとう  宮井 智


「青春時代の家康」 家康と今川義元




     25歳時の青年家康の像

肥満気味のこれまでの家康像を一新する、きりっと引き締まった家康
は馬上で首をちょっと右に向けて、眼光鋭く見つめるその双眸の先は、
自らが生れた実家がある岡崎城である。
(とても25歳には見えませんが…)
三河は、今川、武田織田に囲まれて相当な緊張状態にあった。
こうした中で、家康の父・松平広忠は一族の安寧を願って、今川の傘下
に入ることを決意した。
となると、真っ先にせねばならぬことがあった。
それは「妻・於大を離縁すること」であった。
妻・於大の実兄が織田方に帰属していたためである。
この時、わずか2歳の竹千代は、最愛の母と生き別れになった。
さらに6歳の時には、「三河松平一族」の将来を堅固にするため、
父の考えで今川の「人質」となった。


世の常と思えば風も穏やかに  津田照子


ところが、その今川への移送の途中で竹千代は、父の後妻の父・戸田康
の謀で織田方にさらわれてしまった。
そんな状況の時に、父・広忠は24歳の若さで死去する。(死因は不明)
竹千代が人質交換で「今川に」戻るのはその2年後。今川・織田両家の
抗争で今川に捕まった、信長の兄・信広との交換によってであった。
今川に竹千代は、そのまま8歳から20歳までの12年間、今川の人質
として駿府で過ごしたのだった。
だが人質とはいえ今川義元は、竹千代を大切に扱った。
逼塞生活を強要・強制せず、学問、読書も自由にさせた。
食事も粗末なものではなかった。
竹千代の元服時には、烏帽子親にもなった。
この時、竹千代は義元の「元」の字をもらって「元信」と名乗った。




ひとり身の淋しい分は自由です 油谷克己




         今 川 義 元




「家康と今川義元」


竹千代今川義元の駿府に人質として来たのは8歳の時。
駿府に来た竹千代は、大変病弱であったために祖母が付き添って面倒を
見た。祖母とは、竹千代の母・於大の方の母・源応尼(華陽院)だ。
勉学のため祖母は娘に代わって竹千代の面倒を見た。
竹千代に源応尼は、智源院の智短和尚に手習いを学ばせた。
またある時は、大岩臨済宗の今川家軍師太原雪斎からも、勉学の手ほど
きを受けさせた。


生い立ちの一部を仕舞うペンケース  清水すみれ


竹千代は、母親とは3歳で生き別れ、父親とは8裁で死別。
物心ついてから竹千代の苦難が始まったが、人質としてきた竹千代には、
じめじめとした、暗い人質のイメージはない。
今川家軍師の臨済宗・雪斎和尚からも、勉学指導を受けるなど、通常の
人質とは大きく違った。
一般的に人質という暗い座敷牢の感覚であるが、痩せても枯れても竹千
代は岡崎のプリンスである。
(歴史家は竹千代を人質と言うよりは岡崎から来た『政務見習』として
 駿府に預けられたという見方をしている)
とは言っても、竹千代が人質の身分であったことには、間違いない。


ややこしくする舌がいてややこしい  森井克子


「里帰り」
1555年(弘治元年)今川義元は、「元」の一字を竹千代に与え14
歳で元服させた。「松平次郎三郎元信」の誕生だ。
元服した翌年に元信は、岡崎へ里帰りを許された。
祖先の法要と墓参が目的である。
元信は8歳の時に父・松平広忠を失ったが、このとき初めて亡き父親へ
の墓参を果たした。
岡崎城では、城を守る鳥居忠吉(80歳)から密かに場内を案内された。
元信がやがて岡崎城に帰国したときに困らないように、軍資金や兵糧米
を蓄えていたのを見せられたという。このとき
「食う物も食わずに苦労しながらも、家臣たちは元信に夢を託している」
ことを元信は知った。
これに励まされた元信は、この時に将来の自立を誓ったという。


私からたまった水を抜いてます  柳本恵子





    桶狭間の戦いー今川義元沈没の図 (芳年画)



「結婚と初陣」
1557年(弘治3年)正月15日、元信「蔵人元康」と改名した。
義元の勧めで元康は、16歳で義元の姪である瀬名姫と結婚した。
後の築山殿である。
一人前となった元康は、その直後に西三河攻めを義元に命じられ初陣を
飾った。 それから2年後、
義元は、戦国乱世をまとめるため、京都上洛を目指して大軍を動かした。
そしてまた一年、1560(永禄3)5月19日、信玄の陣営に思いも
かけない知らせが来た。長年にわたって同盟を結んでいた今川義元が
尾張侵攻の途上、「信長の奇襲にあい戦死」したというのである。
「桶狭間の戦い」である。
義元は、雄図(ゆうと)むなしく、信長に敗れ戦国の均衡は崩れた。


信長の花押は文に収まらぬ  新川弘子




       天下餅を搗く信長




替わって織田信長の登場である。
元康は上洛軍の先鋒隊であったが、義元の戦死を境に今川家と決別し
岡崎城に戻った。
今川家を捨て信長と結んだ家康は、軍事同盟と姻戚関係を結んで信長
との絆を強くした。
ところが、敵国の武田と築山殿が内通した事件で、元康は多くの試練
を味わった。元康には、数々の難問が容赦なく降り注いだ。
1564年(永禄7)の2月には、三河の一向一揆が元康を襲い三河
領国を揺さぶった。家康23歳の時である。
家康は三河軍団を組織し、1566年(永禄9)には松平姓を捨てて
「徳川」を名乗った。徳川家康の誕生である。


解凍の途中で山が動き出す  中林典子

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欠点が少しあるのも隠し味  東 定生




「家康 どうする!?」
はてさて困った と表情豊かな家康像



天下取りに恵まれたのは1530年代生まれの世代だった。
国際情勢にまで目を配る広い視野を持ち、新しい政治と領国支配の手法
を基盤にできた者が、天下を我が物にしたのである。
それにライバルが「ちょうどよい時期」舞台から消えてくれる運に恵ま
れる必要もあった。運も実力のうちなのだ。
徳川家康は辛抱の人でもあるが、最後に幸運も呼び込んだ英雄でもあった。
天下取りにノミネートしたのは、1530年代生まれの世代だった。
今川義元  1519-1560
武田信玄  1521-1573
明智光秀  1528ー1582
上杉謙信  1530ー1578
織田信長  1534ー1582
豊臣秀吉  1536ー1598
徳川家康  1542ー1616
義元の生年から家康没年までざっと100年。
日本の統一に向かって歴史の流れが大きく回転した年だった。


狼煙へ武士の血が騒ぎだす  笠嶋恵美子








「どうする家康」 家康ってどんな人?


「家康誕生」
天文11年(1542)12月26日 、60年に一度しか訪れない壬寅
(寅年の寅の刻)に徳川家康は三河岡崎城主・松平広忠於大(伝通院)
の間に生まれた。幼名・竹千代。通称・次郎三郎、後に蔵人佐。
壬寅生まれは、ゆったり、どっしりとして「強運の人」といわれる。
今川義元の生年から家康没年までざっと100年。
日本の統一に向かって歴史の流れが大きく回転した年だった。
国際情勢にまで目を配る広い視野を持ち、新しい政治と領国支配
の手法を基盤にできた者が、天下を我が物にしたのである。
それにライバルが「ちょうどよい時期」舞台から消えてくれる
運に恵まれる必要もあった。運も実力のうちなのだ。
家康は辛抱の人でもあるが、「最後に幸運も呼び込んだ英雄」
でもあった。


小吉を大吉にするその笑窪  古崎徳造


「家康の外貌」 
「彼は中背の老人で尊敬すべき愉快な容貌を持ち太子(秀忠)のように、
 色黒くなく、肥っていた」又「下腹が膨れており、自ら下帯を締める
 ことができず、侍女に結ばせていた。偉人でありながらも、多面的な
 性格を持つ、人間味あふれる人物だった』
(『ドン・ロドリゴ日本見聞録』) 1609年謁見した家康の印象ゟ
身長159cm (当時の平均身長155㎝) 
血液型はA型。 (手形などから採取)
因みに家康の周りの人の身長はというと。
武田信玄…153cm
上杉謙信…156cm
明智光秀…156cm
徳川家康…159cm
豊臣秀吉…127cm
伊達政宗…160cm
加藤清正…161cm
織田信長…170cm
前田利家…182cm


見えすぎる鏡に笑うしかないね  靏田寿子


「趣味・興味」
家康はどんな鍛錬をした? 
家康の老人と思えぬがっちりした 体躯は日ごろの鍛錬の賜である。
剣術・馬術・水泳・鷹狩りと多岐に渡る。
剣術は奥山流と柳生新陰流の免許皆伝、馬術は大坪流でよく遠乗りに出
かけた。なかでも、水泳と鷹狩りを好み、63歳で隅田川を泳いだ。
 死の直前の75歳で、田中城外へ鷹狩りに出かけたなどの記録がある。
「鷹狩りは手足を達者にし、健康な体をつくるので、朝飯がうまく
よく眠れて夜遊びや女遊びをしなくなる」と、述べ、
生涯に千回以上も鷹狩りをしたという。
なお、囲碁・将棋は趣味を超えた人並み以上の実力だったそうだ。


思い切り右脳で煎餅をかじる  郷田みや




        精力増強剤・保命酒
保命酒を入れた備前焼の器は、現在では骨董店の店先を飾る逸品だ。


「健康オタク」
家康は、健康オタクであったことでも知られている。
医療技術が発達していない戦国時代において、武田信玄をはじめ多くの
武将が病に倒れていったなか、家康は健康に気を使い70歳を過ぎても
溌溂としていた。
健康維持のための鷹狩りや・乗馬、水泳などのほかに、食事は贅沢な物
を避け、煮物や焼き物、麦飯などを好んで食べていたという。
又、自ら漢方薬を調剤し、「万病丹」「銀液丹」と名前を付けて小さな
入れ物で携帯し常服。
のちに江戸幕府3代将軍となる孫の徳川家光が病に罹ったときも、家康
が直々に薬を調合して飲ませたと伝えられ健康に留意したことで、当時
の平均寿命が40歳であった時代に、家康は75歳まで生きたのである。


月食のディナーに菜園のレタス  前中知栄




             吾 妻 鏡




「愛読書・出版事業」
家康は好学の士として知られ『吾妻鏡』を愛読していた。
吾妻鏡以外でも『論語』『中庸』『史記』『貞観政要』『延喜式』を好
んで読んだといわれる。
家康が尊敬する源頼朝から武士の道理や治世の術を学んでいたのである。
家康が尊敬していた人物はほかに、劉邦、唐の太宗、魏徴、張良、韓信、
太公望、文王、武王、周公らが並ぶ。
面白いことに、施政・軍事・部下教育など武田家を手本にしたものが多
く、家康を苦しめた宿敵武田信玄を尊敬していた様子もある。
施政・軍事・部下教育など武田家を手本にしたものが多い。 
さらに「伏見版」と呼ばれる木版による歴史書や儒書を刊行しているし、
林羅山金地院崇伝伝に命じて銅活字による「大蔵一覧集」を125部
制作一冊ごとに朱印を押して、全国の寺に寄進している。
出版事業にも興味をしめしている。


伝えたいことがたくさんある無口  高橋レナ


「新しい物好き」
晩年の家康は、何故か時計が好きだった。
南蛮時計、日時計、砂時計などを蒐集しており、又、けひきばし(コン
パス)、鉛筆、眼鏡、ビードロ薬壺などの舶来品が遺品として現存する。


オードリーヘップバーンの指サック置いてまっせ 
                    酒井かがり


「艶福家」
信長、秀吉、家康のうち、一般に一番の女好きは秀吉、逆に信長は女に
ほとんど興味がないとか、女嫌いと評される。
では家康は、ごく平凡な女性関係だったかのかと思うととんでもない。
そもそも家康の生まれた松平家は、精力旺盛な家系だったといわれ、
3代信光はなんと48人もの子を設けている。
家康もその血筋を引いていたようで、記録に残るだけでも、正室2人、
側室15人との間に、19人の子をつくっている。
これは家斉・家慶についで歴代将軍第3位の数である。


ブランコのゆれにまかせている余生  青木敏子





         築山御前



「家康の女性の好み」
家康が好きな女性のタイプは、秀吉「血統書」つきブランド女を求め
たのに対し、もっぱら後家を好んだ。
それも身体の丈夫な、子を生むのに適した女を選んだという。
家康自身、子作りにはかなりの執着をみせたらしく、自前の薬草園で精
力増強のための薬草を育てさせたとか…。
家康は「英雄色を好む」の格言を実践した一人であった。


雑学が音符に変わる雨の午後  高野末次


「倹約家」
徳川家康は贅沢を嫌い、質素倹約を心掛けた生活をしていたという逸話
が多数残されている。
倹約家であったことを示す有名な逸話は、以下のようなものがある。
① 着物はほとんど新調せず、ぼろぼろになるまで着ていた。
 洗濯の回数を減らすため、汚れが目立たない「浅黄色」のふんどし
  を好んで着けていた。
 女中の食費が嵩むのが気になり、お代わりをさせないように漬物の
  味をものすごく塩辛くした。
 手洗いのための懐紙が風で飛ばされた際、新しい懐紙を出さず、飛
  ばされた懐紙を取りに行き家臣に笑われるが、これに対し徳川家康
  は、「わしはこれで天下を取ったのだ」と言った。


つつましく生きる人込み避けている  杉本克子


「ケチ」
 家臣が座敷で相撲をしているときに畳を裏返すように言った。
② 代官からの金銀納入報告を直に聞き、貫目単位までは蔵に収め、
  残りの匁・分単位を私用分として女房衆を集めて計算させた。
 三河にいたとき、夏に家康は麦飯を食べていた。
家康が倹約家でケチあった理由の一つに、幼い頃の人質生活の経験から
培われたものという。人質は決して贅沢はできない。
私生活だけでなく政治においても倹約家ぶりを発揮した家康は、最終的
に直轄領だけで400万石を手に入れながらも、譜代の筆頭家臣に与え
たのは、その1割にも満たない30万石のみ。
しかし、この徹底的な家康のケチ・倹約の精神が江戸幕府存続の礎にな
ったことは間違いない、と家康は自負をしている。
「おまけ」
こんなケチな家康を、蒲生氏郷は、秀吉の後に天下を取れる人物として
前田利家をあげ、家康については人に知行を多く与えないので、
「人心を得られず、天下人にはなれないだろう」と評している。


煎餅割って小さい方を孫にやる  新家完司

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