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川柳的逍遥 人の世の一家言
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 懐かしいノイズが混じる蓄音機  くんじろう



「鎌倉殿の13人」 鎌倉のよもやま



西園寺公経(さいおんじきんつね)
小倉百人一首では入道前太政大臣
花さそふ嵐の庭のゆきならでふりゆくものは我が身なりけ

京に西園寺公経という貴族がいた。彼は頼朝の姪を妻に持つ縁故から
鎌倉幕府との親密な関係を結んでいた。
公経は承久の乱前夜、朝廷による倒幕の情報をいち早く京都守護へ告げ、
そのために幽閉を余儀なくされたが、乱後は幕府方の功労者として一挙
に太政大臣となる。
その後は、幕府と朝廷のパイプ役として権勢をふるった人物であった。
そんな公経は、洛西衣笠山に豪壮な北山別荘を営んでいる。
そして後年、この別荘が、足利将軍義満の北山殿に改築され
やがて「金閣寺」へと発展していく。
時流を察知し政治家として一時代を築いた彼も、後年自分の建てた別荘
が日本で最も建築物になろうとは思いもよらなかったであろう。



我武者羅でありたい空が美しい  上坊幹子




         「曲者/法印尊重」




承久の乱が終了し、次々と朝廷側の首謀者が幕府に捕まっていった中で、
尊重という法印は、巧みにその網をくぐりぬけていた。
(尊重とは僧侶・山伏・祈祷師などのこと)
後鳥羽上皇の側近であった彼は、武士に反感を持つ寺社勢力の代表でも
あり、倒幕を強硬に推進してきたので、当然幕府の追補リストに載って
いるはずであった。
この尊重なる人物は、猛牛に車を引かせる牛車のレースに熱中し事故を
起こして大ケガをしたり、承久の乱の最中に親幕府派の公家西園寺公経
を憂さ晴らしに殺そうとしたりと、まさに荒れ狂う坊主であった。
しかし、幕府軍が京を占領すると、彼はさっさと逃げ出してしまう。



用意万端避難袋は枕元  前中一晃




逃げ延びた尊重は吉野の奥に隠れ、還俗して地元の娘の婿になりすまし、
熊野から九州と動き回って反乱の機会を狙っていた。
そして突如京に姿を現すと、幕府に討たれた和田義盛の子息と通じて、
事を起こそうとするが、いに捕まる。
処刑の前、尊重は六波羅探題方丈・時氏に向かって
「死んでやるから、義時が飲んだ毒薬をくれ」と叫ぶ。
時氏の祖父・義時は3年前に急死しており、毒殺の噂が流れていたのだ。
尊重の嫌がらせの一言が噂を裏付ける形になってしまった。
彼は最後っ屁のように効果的な一発をかまして死んだのである。



言い勝ってむなしい心尻っぽ出す  石田すがこ




                                        「一遍上人絵伝」
京都四条付近の様子。活気あふれる庶民のしたたかさが見える。

「勝手に公道をたがやすべからず」

京の朱雀大路は、側溝などを含めて92mの幅があった。
面白いことに「延喜式」では、側溝でネギやセリや蓮などを栽培する
ことを認めている。
ところが都が荒廃するにしたがい、ドサクサに紛れて朱雀大路に畑を作
ったり、勝手に占拠して家を建てたり、する輩が増えてきた。
まるで戦後の闇市のような光景であったのかもしれない。
このようにもと公道だった畑や宅地の場所を「巷所」というが、
貞応元年(1222)には巷所の帰属をめぐって、山城国司と京都守護
が争っている。闇市の縄張りをめぐる抗争のようだが、
建久2年(1191)の新制では、巷所そのものが禁止されている。



あるがまま我が人生の如き庭  山谷町子





「ぼろぼろ」
男ー縞模様の紙衣を着たぼろぼろが女性を襲っている様子。

鎌倉時代の後期には、何らかの理由で所領を失った武士たちが、信仰を
求めて諸国を放浪する様がよく見られたという。
彼らは独特の模様の紙衣をまとい、托鉢のようなことをしながら家々を
回っていたようだ。 
人々は彼らのことを「ぼろぼろ」と呼んでいた。  『徒然草』
「ぼろぼろというもの昔はなかりけるにや。近き世にぼろんじ・梵字・
 漢字などいいける者」とある。
吉田兼好は彼らについて、世を捨てた割には我執に強く、仏道を願う割
には、争いばかりしていると、やや批判的である。
しかし「沙石集」では
「知恵も賢く器量つよく、発心もたかく、修行もはげし」
と、賞賛もされている。
「ぼろぼろ」は、仏法における解説の境地達するために、運を天にまか
せて漂泊の旅をひたすら続けたのであろうか。
絵は武士の屋敷の門前で今にも殴られそうになっている旅の男。



生き延びる運命線のババつかみ  中村牛延




「法然上人絵伝」
延暦寺の人々に墓を暴かれる前に法然の遺骸を移そうとする念仏宗徒

当時は洛中にも殺人・放火・強盗などが続出した時代。
延暦寺は、それらの犯人の多くは念仏宗徒であると非難し、彼らに暴力
を振るったりした。それはやがて、法然の墓を暴くという計画を立てる
までにエスカレートする。
念仏宗徒は事前に情報をつかんで事なきを得たが、その後も執拗な延暦
寺の弾圧により、洛中の念仏宗は一時衰えをみせた。
一方的とも見える延暦寺の弾圧だが、その原因は念仏宗徒側にもあった。
彼らは「憎悪無碍」(ぞうおむげ)を主張し、その真意を誤解した者が
わざと悪事を働くことがあったのだ。
これでは、犯人に疑われても仕方がないというものだろう。



つながっていますぶら下がっています  新井曉子




「景正作と伝わる陶製の狛犬」
陶器のことを俗に「瀬戸物」というがそれは尾張の瀬戸焼から出ている。

「瀬戸焼」の開祖は、加藤景正と伝承されながらも、その経歴は不明な
点が多い。
一説には安貞元年(1227)道元の入宋に従い、福建省で陶器の製造
法を学んだという。そして帰国後、良質の陶土を求めて諸国を遍歴し、
尾張の瀬戸に到ったと伝えられている。
鎌倉末期には、彼が伝えた製造法が一般化し、全国的にも「陶器」とい
えば「瀬戸物」という具合になった。
景正は通称を藤四郎といい、12代の子孫まで代々陶業に携わり藤四郎
を名乗った。



ゆったりとあなたの福にからまって  柴本ばっは




                                                餓鬼草紙 




「生き地獄となった大飢饉。廃した京の街の様子」



ひとたび飢饉に見舞われれば、都といえども地獄と化した。
このときの被害は全国に及んだ。
寛喜2年(1230)は異常な冷夏であった。
6月には、武蔵と美濃に雪が降った。
旧暦の6月だから今なら7月下旬頃である。
綿入れの衣が必要だったという。
当然農作物の不作はひどく、被害は甚大であった。
翌年2月には、疫病が流行し3月以降は、餓死者が道に溢れるようにな
った。
供物が供えられると人々が奪い合う。
今まで禁忌のために食されなかった牛馬の肉まで食用にされた。
麦もすべて枯れ、種麦まで食べるから種麦が米価の4倍まで高騰した。
鴨の河原には死体が散乱し、死臭が街中に漂い、盗賊が横行し、人々は
家を捨て難民となってさまよい、子を売り、妻を売った。
そんな地獄絵図が、寛喜3年の8月をピークに繰り広げられたのである。
執権北条泰時は、租税や課役を免除する徳政を命じたり、自分の分国で
ある伊豆・駿河で富民に米を放出させ、窮民の救済にあてたりして飢饉
に対応した。 また御家人の贅沢を禁じ、倹約を奨励した。
しかし天災にはなすすべもなく、正常な天候の回復を待つしかなかった
のである。



そのうちに死ねない時代生き地獄  笹百合子




     「平泰時小傳」  



「北条泰時の大岡裁き」


北条泰時には次のようなエピソードが『沙石集』にある。
九州のある地頭が、困窮のあまり所領を売ってしまったのだが、長男が
買い戻して父の知行地とした。
ところが父は、その所領を次男に譲ってしまったため、兄弟で争いにな
ってしまった。
兄は嫡子で幕府に奉公がある。弟は父の譲状を持っている。
どちらに「道理」があるのか?
法律の専門家は、「親子関係による譲渡に幕府は介入できないから弟に
分がある」という。
理屈としてはそうかも知れないのだが、泰時は御家人の兄を不憫に思い、
領主がいなくて生じた土地を与えたのである。
『御成敗式目』を定めた泰時としては「道理」が第一である。
しかし「情」を無視しては、御家人から信頼を得ることができないと
考えたのであろうか、北畠親房『神皇正統記』荒井白石『読史世論』
頼山陽『日本外史』などの歴史書は、北条家に批判的だが、この泰時に
対してだけは、公正で情け深い政治家ということで賞賛している。



手のひらで転がされたり転げたり  岡田良子



「悲しき父 執権・北条泰時」


仁治3年(1242)6月、北条泰時が亡くなった。
過労に赤痢を患ったことが原因であった。
当時の人々は隠岐に流された後鳥羽上皇の怨霊のせいだと噂したという。
泰時は頼朝の政治を踏襲しながら、合議制という政治システムを導入し
て北条政権を盤石なものにした功労者。
政治家としては、意欲に充ちていたであろうが、父親としては悲嘆に暮
れる日々であった。
安貞元年(1227)6月に泰時の次男、時実がわずか16歳の若さで
家人に殺害されている。
そして寛喜2年(1230)6月には、長男・時氏が28歳で病死。
「承久の乱」のときには、宇治川の激戦でともに戦い、いずれ執権職を
継がせようと思っていた愛息であった。
さらに8月、三浦泰村に嫁いでいた娘が出産で母子とも亡くなっている。
まさに悲しき父であった。



逢い別れ諸行無常の風の中  宮原せつ

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