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川柳的逍遥 人の世の一家言
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塞翁が馬か人生浪花節  岡田幸男





            鎌倉殿の最終章



承久の乱の後、北条義時の立場はいっそう強まり、独裁体制さながらに
権力を振るうことになる。もっともその期間は短い。
乱から3年後の貞応3年(1224)義時が病により没したからだ。
彼の60余年の人生、頼朝死後、若き日の茫洋とした義時の姿はなく、
鎌倉を守るため、また北条氏を守るため、その生き様は厳格さを貫き通す
ものだった。その過程となる出来事に携わってきた義時は、
歴史的にも決して評判はよくない。


悪人もみんなやさしい絵本の絵  清水すみれ



「鎌倉殿の13人」 北条義時、没する


「義時を悪人伝説に仕立てた出来事」
   




この時は何の疑いもしなかった広常



頼朝失脚を企む御家人たちの計画を潰すため義時は、大江広元(栗原英
雄)と連携してことを収めていた。
しかし事なきを得たはずだったが、広元の筋書きには続きがあった。
広元は頼朝「見せしめ」として「誰か一人に謀反の罪を負わせる」
ことを進言していたのだ。
その一人とは、御家人の中でも上位の上総広常佐藤浩市)だった。
頼朝の命を受けた侍所所司の梶原景時は鎌倉の御所内で広常を暗殺した。
義時はその時、唖然とした顔で頼朝の冷酷さをみた。
義時の厳格と非情性は、このときに醸造が開始されたのかもしれない。


沖へ沖へ私ひとりの舟を漕ぐ  津田照子





 能員と義時の腹の探り合い


「比企の乱から派生する一連の粛清」


頼朝の死後、将軍頼家と北条氏との対立が激化すると、阿野全成(新納
慎也)は突如、謀反の罪で常陸に配流され八田知家(市原隼人)により
誅殺された。
それを画策したのが比企能員(佐藤二朗)だった。
さらに能員は頼家と「北条転覆を画策」…これは北条にとって脅威でし
かなく義時は宣戦布告し、比企氏を壊滅。そして女・子どもの区別なく
一族を掃討した。


いざこざも五色の糸も絡みつく  小谷小雪



「一幡暗殺」
つづいて義時は、頼家(金子大地)の長男で比企の血を引く一幡(相澤
壮太)を殺害するよう善児(梶原善)に命じた。
が、姉・政子の助命に掬われ一幡は一命をとりとめた。
一幡はのちの公暁である。公暁「実朝暗殺」を謀ることとなる。





             頼家と政子



「二代将軍・源頼家(金子大地)追放」
頼家が後鳥羽上皇(尾上松也)に「北条家追討」の院宣を受ける計画が
露見し、伊豆へ配流され、のちに修善寺で殺害される。
義時が後の憂いを排除するための決断だった。




彼岸花彼岸違えず畦道に  大橋恒雄





    時政を唆すりく




「北条時政とりく(牧の方)の謀反の罪」
北条時政(坂東彌十郎)とりく(宮沢りえ)は、「実朝を暗殺して娘婿
の平賀朝雅を新たな将軍にしようと陰謀を企んだ」牧の方の乱である。
それを義時政子は激怒し、父・時政とりく(牧の方)を鎌倉から追放
し伊豆へ幽閉した。
さらに実朝から鎌倉殿の座を奪おうとしたとした罪で朝雅の殺害を命じた。


誘われて乗ってしまったガラス板  靏田寿子





   義時・重忠一騎打ち




「畠山重忠の乱」
重忠(中川大志)は、時政りく(宮沢りえ)の理不尽な行動によって
窮地に陥る。重忠は頼朝以来の旧臣であり、また時政の娘婿である。
その時政が牧の方の意向か義時「重忠を討て」と命じてきた。
重忠と仲のよかった義時は反対しながらも、最終的には父の命に従う。
ここで2人の間には決定的な溝ができ、御家人のなかでも人望のあった
重忠を義時は、心ならずも誅殺した。


かみさまの杓で冷たい水を飲む  板垣孝志





  裏切りの矢に倒れる義盛



「嵌められた義盛」
泉親衡頼家の遺児を擁立して乱を謀るが失敗。
これに和田一族が加担していることが発覚した。
この事件が和田義盛(横田栄司)にまで波及、無実を訴えるも通らず、
義盛は、反北条の旗頭となり合戦に及んだ。「和田義盛の乱」である。
義盛は実朝(柿澤勇人)の説得で降参した瞬間、だまし討ちにされる。


ちり箱にシワが一枚捨ててある  通利一遍





     承久記絵巻に描かれた義時



「はじめは駄馬の如くーー義時を振り返る」




北条義時がこの世を去ったのは貞応3・元仁元年(1234)6月。
62歳で死ぬ日まで、彼は遂にナンバー2のままだった。
もっともこれは、ナンバー1たる政子が、その後も生き残ったからでも
あるが、おそらく彼自身―ナンバー2こそ望むところ。と思い続けてい
たのではあるまいか。 官職についても生涯無欲だった。
右京大夫、陸奥守といった職も、晩年には辞してしまっている。
源実朝が、あくまで官位の昇進を望み続けたのとはまさに対照的だ。
名誉欲すなわち権力欲と錯覚しがちだが、それが本質的には全く別もの
であることを、義時は身をもって示している。
官位とか肩書は、結局人生のアクセサリーにすぎないし、決して権力を
保証するものではない。
冷静な義時は、ちゃんとそのことに気がついていたのだ。
実力派、ナンバー2には肩書は不要である。
逆にいえば、肩書やら勲章をほしがるうちは、真のナンバー2にはなれ
ないということか。


解凍はゆっくりでいい土踏まず  前中知栄





    苦悩する義時


私の知る資産数十億の大社長は、ことのほかラーメンがお好みである。
汚い店にぶらりと入って、安サラリーマンと肩を並べてラーメンを啜る。
―よもや、この俺が大金持とは知るまい。
と思うとき、彼は最高の満足感を味わうらしい。
貧乏人にはまねのできない、ぜいたくな満足感である。
ラーメンをすすることは、誰でもできる。
が、数十億持ってラーメンをすすれる人はそうはいない。
義時の晩年の楽しみはそれに似てはいないか。
上皇を配流するほどの権力者でありながら、肩書らしい肩書は何もなし!
<いや、その味がこたえられんのよ>
万年ナンバー2氏は、にんまりしてそう呟いていたのではなかったか。


理性ではわかっているのに臍曲り  高田佳代子




そして、もしも、もう一度、現代人があの世に行き、
「でも残念ですねえ、りっぱな肩書がないおかげで、後世の人はあなた
 が名ナンバー2だったことさえ知らないんですよ」
といったとしたら、
<ほう、そうかい、それこそ俺の望むところさ>
と答えたかもしれない。
が、これを無欲とか人格高潔と思いこむのは早計である。
そう思いこませるほど、彼は狡猾だったのだ。
ー名もなく、清く、したたかにー
日本を蔽いつくすほどの野望を抱きながら、北畠親房にさえ褒められる
くらいに狡猾な身の処し方ができなければ、ナンバー2の生涯を全うす
るのは不可能なのである。


プライドを表に出さず枯れ葉散る  奥山節子








「義時の死線」
貞應3年6月12日、義時の体調は優れななかった。
当時の6月は現在の7月になる。脚気を患っていた義時は、老齢にその
日の暑さも敵で、体を衰弱させていたのかもしれない。
呼び寄せた陰陽師に占わせると
<戌の刻いわゆる晩方には快復に向かうだろう> とのことだった。
念のため、祈祷が行われた。
しかし、時間が経つにつれ、義時の容態は悪くなる一方である。
明け方にはいよいよ危険な状態になり、13日の太陽が真上に昇る直前、
政子が祈るように見守るなかで義時は、息を引き取った。62歳だった。


アイスピックで砕いた残念のかたち  山本早苗


「その死には、毒殺説もある」
義時が亡くなったのは貞應3年のことであるが、その死が突然であった
ことから、様々な憶測が飛び交った。
その一つが義時の3人目の妻である伊賀の方(菊地凛子)の「毒殺」に
よるというものである。
承久の乱の首謀者の一人として、六波羅探題に拷問を受けた延暦寺の僧・
尊長が苦痛に耐えかねて、つい、「義朝に妻が飲ませた薬で俺も殺せ!」
と、あたかも義時の妻が夫を毒殺したかのように吐き捨てたというのだ。
義時の死の直後、伊賀の方が、兄・伊賀光宗と共謀して、我が子・政村
を執権の地位に昇らせるよう計ったいうのである。
「牧の方の乱」をまねたわけではなかろうが、謀反発覚後、伊賀の方は
伊豆国に配流。それから程なく亡くなるという流れがある。

裏切られたのかおかしな味がした  猫田千恵子

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茶助
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