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川柳的逍遥 人の世の一家言
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武者震いいいえ貧乏ゆすりです  合田瑠美子



                                              「承久記絵巻」
『承久記絵巻』は、承久の乱を描く軍記物語『承久記』にもとづく絵巻
である。三代将軍源実朝亡き後の鎌倉幕府を滅ぼそうと企てた後鳥羽院
の挙兵と敗退、隠岐の島配流までを描いている。
この絵巻を収める木箱の蓋には「土佐光信」画/月輪禅定御筆」と、墨書
されていて、絵の筆者を15世紀 ~16世紀前半に土佐光信とし、詞書
の筆者を「月輪禅定」九条兼実 (1149-1207) とする。
この記載が、事実とは俄かに信じ難いが、では誰が絵を描き、詞書を書
いたのかというと、すぐには分らない。
とはいえ、「雅趣雄麗で筆法緻密」という高い評価の通り、実に見ごた
えのある絵巻である。
しかも、江戸時代以前に「承久の乱」を描いた絵画作品はほとんど現存
せず、その点からも貴重である。

深呼吸しながらそっと風を聞く  上坊幹子


実はこの絵巻、恩賜京都博物館で展示公開された後、遅くとも 1974年 
以前に所在不明となっていた。
まとまった記述は『後鳥羽天皇七百年記念拝展目録』のみで、そこに
挿図も一切ないため、長年どのような絵巻か分からなかったのである。
幸いなことに、筆者はこの絵巻を個人が所有していることを知り調査・
成果公表をお許し頂いた。
そこで、筆者が学芸員として勤務していた京都文化博物館の特別展・
「よみがえる承久の乱ー後鳥羽上皇vs鎌倉北条氏」で展示公開させ
て頂いた。
展覧会終了後の 2021年 6月下旬に『承久記絵巻』は個人から龍光院
に寄贈された。数十年ぶりに龍光院に絵巻が戻ったのである。
                    富山大学講師 長村祥知



「鎌倉殿の13人」 承久記絵巻を読む




                                            巻第2ー絵第6段


北条義時が諸人と対面しているところに、三浦義村が弟・胤義からの
私の文を持参した場面。
これより義時は後鳥羽が自らの追討を命じたことを知った。
因みに、義時は著名な人物であるが、意外にも肖像画等の存在は
確認されていなかった。この場面は義時を描く絵としても注目される。


ここでしか咲けない花もあるのです  荒井加寿




                  北条泰時が明恵上人の法談を聞く場面

絵伝記とも。明恵に帰依した北条泰時との法談を中心に構成され、3巻
15段から成る絵伝である。
詞書は多く「栂尾明恵上人伝」などの伝記系諸本からとっている。
本絵巻は近世に原本から模写されたもの。
元禄3年(1690)三宅高信が絵を描き、書家北向雲竹 1632〜1703)の
門人13人が詞書を書いたと奥書にある。
三宅高信は履歴未詳だが、「高山寺に滞在して先哲の名画を模写した」
と伝える。


あの世でもこの世でもない沖にいる  徳永政二



                                          卷第4ー絵第6段


鎌倉方は宇治川の戦いで苦戦し、多くが溺死していた。
軍勢を率いる北条泰時が、自身も宇治川を渡ろうとするが、
春日刑部三郎が諌止したところ。


大変があるかないかは明日の闇  佐藤近義



                                                卷第5ー絵第3段

京方の敗勢が決定的となる中、東寺に籠る京方の三浦胤義と鎌倉方・
三浦義村配下の佐原又太郎景吉が戦う場面


人知れず泣いたか武者の目が赤い  山本昌乃


「承久の乱の流れ」



                                     始まりは実朝暗殺

承久記絵巻 巻第1(個人蔵)通期(巻き替え)
*源氏最後の将軍・源実朝が鶴岡八幡宮で暗殺され、鎌倉方と後鳥
羽の関係が悪化。そして、歯車が狂いはじめた。


                            最初の戦い 鎌倉御家人の作戦会議

承久記絵巻 巻第2(個人蔵) 通期
*京にて、京方武士が北条義時の義兄・伊賀光季を追討。
承久記絵巻 巻第2(個人蔵) 通期
*左上の姿は北条義時、歴史資料の中で初めて確認できる。


さらさらと排除しますと決めセリフ  靏田寿子



                    鎌倉方上洛、迎えうつ京方 最大の戦い


承久記絵巻 巻第3(個人蔵)通期(巻き替え)
*上洛途中の鎌倉方と京方が美濃国莚田で合戦。
鎌倉方が勝利。


                  承久記絵巻 巻第4(個人蔵)通期

*宇治橋の合戦。宇治川をはさんで、京方と鎌倉方
が対峙。


おもうまま奔って滝壺に落ちる  橋倉久美子




                    宇治橋の激戦 京方の敗北が決定的に

承久記絵巻 巻第4(個人蔵)通期(巻き替え)
*橋板を抜いて応戦。
承久記絵巻 巻第5(個人蔵)通期(巻き替え)
*敗走する京方を追う鎌倉方。


お互いが入れた切り取り線でした  有海静枝



                         後鳥羽、隠岐に配流


承久記絵巻 巻第6(個人蔵) 通期(巻き替え)
*敗れた後鳥羽は出家し、隠岐へ。
時代不同歌合絵断簡(中務卿具平親王・愚詠)
(京都国立博物館蔵)通期
*隠岐で後鳥羽が編んだ歌合を絵画化。


傷心をいやす青銅の風鈴  森井克子


江戸時代に三宅高信が模写した3巻が全体を伝える。
この断簡は巻下第4段に相当し、明恵上人と建仁寺円空上座との
対話の場面を描く。
脇息を右に置き顔を見せているのが明恵である。
円空は栄西の弟子であり、禅定を修すべき様について明恵に問うている。


傷心をいやす青銅の風鈴  森井克子


「宇治川の戦い」




後鳥羽上皇が北条義時追討の兵を挙げたことに始まる承久の乱
絵の場面は、いよいよ軍記絵巻の華、合戦の場面。
左が後鳥羽軍、右が幕府軍。黒い馬が幕府軍の総大将・北条泰時。
左の後鳥羽軍も勇敢に幕府軍に立ち向かい、
朝廷側の総大将・藤原秀康。



幕府方に尾張と美濃で惨敗した朝廷方の最後の砦が、宇治川だった
承久3年(1221)6月14日、北条義時の嫡男・泰時率いる幕府方と、
藤原秀康が総大将の朝廷方が衝突した宇治川は、承久の乱最大の戦いの
舞台となった。

京都の入口である瀬田の大橋の決戦から、北条泰時の率いる幕府軍は
南に迂回し宇治方面に向かった。
宇治に到着すると、泰時の許可を得ないまま、幕府軍の先陣が朝廷軍と
戦いをはじめていた。
そして朝廷側の戦略は、京都への通路である橋の破壊に始まる。
吾妻鏡」には、
『橋の中央二間(の板)を曳き落とし楯を並べて鏃(やじり)を揃え』
(朝廷軍は橋の板を外し、骨組みだけにして、簡単に橋を渡れないよう
にし、そして楯を並べて、身を隠しながら矢を放って攻撃を仕掛けた)
戦いは朝廷側の弓矢を使った攻撃が成功し、幕府軍は突破に失敗をする。
『朝廷軍が矢を放つことは雨のようで、東国武士は多くがこれに
当たり、退いて平等院に立て籠もった>』『吾妻鏡』
さらに大雨が降ってきたため、この日の戦いは終了となった。


追いかける気力低下のちぎれ雲  市井美春



 
13日の戦いに北条泰時は、宇治橋を渡ることは困難であると判断するも
長雨により、川は増水したままで流れも激しい。
橋を使わずに、川を渡るのも困難だった。
翌14日泰時は、橋ではなく河を渡って切り込む作戦を考え、
泳ぎの達者な柴田兼義という御家人を呼び寄せ、
宇治川の浅瀬を探させた。
兼能は地元の白髪の翁から浅瀬の場所を教えられ、自らもその場所を
確認し、泰時にその調査・情報を持ってきた。
それを聞いて泰時は、渡河決行を決めた。


八起き目の風にゆっくり立ち上がる  宮原せつ


先陣を切ったのが佐々木信綱と芝田兼能であった。
信綱は、北条義時より与えられた「御局」に跨り、兼能は先導役として
川の中にゆっくりと馬を進めた。
それぞれが大声で先陣の名乗りを上げて川を進むと、待機していた兵士
たちもまた士気を上げ、次々と川へと入っていった。
≪兵士が多く水面に轡を並べたところ、流れが急で、まだ戦わないうちに
十人中の二、三人が死んだ≫
ところが激流となった宇治川を渡ることは容易ではなかった。
兵士たちは次々と流され、安東忠家一門14騎で渡河を決行するが、
全員が溺死したのをはじめ、幕府軍800余名が水死した。


プライドを表に出さず枯れ葉散る  奥山節子




        宇治川を渡る時氏・春日貞幸

渡河作戦は苦戦を強いられていたが、泰時は息子の時氏を呼び、
「わが軍は敗北しようとしている。お前は速やかに河を渡り、
 敵陣に切り込んで討死しろ」
と命じ、泰時も時氏に続いて川を渡ろうとした。
馬の轡を取っていた春日貞幸は、泰時の身を案じて、
「甲冑を身に着けている者は、ほとんど沈んでしまっています。
 早く鎧を外すように」と進言し、
貞幸は泰時が甲冑を脱いでいる間に馬を隠してしまった。
それは貞幸の死を覚悟した諌止であった。


頬骨を上げて台詞の大舞台  杉本俊枝


この突拍子もない春日の行為がなければ、後に御成敗式目を定め、
北条政権の基盤を固め、盤石なものにしたた名執権は、
宇治川の流れに飲まれてしまっていたかもしれない。
泰時は貞幸の機転に足止めをくらったが、息子の時氏は、見事に渡河
を成功させ、ほぼ同じころ、中州にいた佐々木信綱も渡河に成功した。
芝田兼能は、馬を朝廷軍に射られ、川に落下させられたが、泳いで
なんとか対岸にたどり着いていた。


塞翁が馬か人生浪花節  岡田幸男




                                 後鳥羽上皇 隠岐へ配流


戦闘がある程度進み、幕府軍は近隣の民家を壊して筏をつくり、ついに
泰時も筏に乗って宇治川を渡り切った。
『泰時が岸に着いた後には、武蔵・相模の者が特に攻めて戦った』
「吾妻鏡」
こうして宇治戦線が崩壊し、敵の大将である源有雅、藤原範茂は逃亡。
朝廷軍の兵士もほとんど逃げ出していた。
次なる将軍として、藤原朝俊が将軍に任じられたが防戦一方で儚く戦死。
幕府軍は、瀬田(東)宇治(西)の二方向から京都に入った。
後鳥羽上皇が義時追討を宣してからわずか一ヵ月で幕府軍の
勝利に終わった。


承久記(谷村文庫)冒頭
『百王八十二代ノ御門ヲハ後鳥羽院トソ申ケル。
            隠岐国ニ隠レサセ給シカハ隠岐院トモ申ス』

旅人は立方体の海に着く  くんじろう

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