三日月のアゴにかかったよだれかけ 笠嶋恵美子
久坂玄瑞
玄瑞は写真嫌いだったので、遺影は遺されていない。
鉢巻きをした玄瑞の肖像は、秀次郎をモデルにして描かれている。
秀次郎の写真は下段にでてきます。
「久米次郎」
玄瑞18歳、
文15歳という若い夫婦の結婚生活は、
玄瑞25歳の死によって終焉を迎える。
玄瑞と文の結婚生活はごく短いものであった。
そのうえ約7年間のうちでも、玄瑞は東奔西走の日々を送り、
萩にいることも少なかったので、
穏やかに2人で過ごした日々など、ごくわずかだった。
そんなこともあり、玄瑞と文の間には子どもはいない。
(明治16年に文は楫取素彦と再婚してからも、子は出来ていない)
三人称で呼ばれた夜の網タイツ 山本早苗
一方、文の結婚を遡ること4年前、敬愛する次姉・
寿は15歳で
小田村伊之助に嫁ぎ、翌年、夫婦の間に、長男・
篤太郎(のちの希家)
安政5年
(1858)には、次男・
久米次郎が生まれている。
久米次郎は、父・伊之助の幼名になる。
そして、久米次郎が5歳を迎える文久3年4月、
長州藩にとって情勢が芳しくない時期、
明日を知れぬ身を案じてのことだろう、
久坂家存続を大事に思う玄瑞は、久坂家の後継ぎに、
久米次郎を養子にしたいと伊之助に申し出ている。
(この一ヶ月のち、下関戦争が始まる)
割り算の余りがとても愛おしい 雨森茂喜
「文久3年8月29日の文への手紙」
ここには、
「8.18の政変」での残念な思いをした話、
小田村伊之助の次男を養子に貰い受ける話、厳しい時世の話
と同時に、変名した名前が書かれている。
この頃からの手紙には必ず久米次郎が登場し、その溺愛ぶりが分る。
【そののちはいかがかと朝夕絶えず心配しています。
私は障りなく暮らしていますので、安心してください。
さて、先頃から藩に帰国しており、殿様の前で内命を受けて上京し、
これやかれやと尽力していたところ、
去る18日のこと(18日の政変)、
いかにも悔しき悪者どもの会津と薩摩の数千人。
禁裏様を取り巻き、そのうえ、護衛していた御門をも、
ほかの人にお預けになり、この節にては、
けしからぬ憎き卑しきことでいかにも残念です。
どのページ開けても雪は舞っていた 大田扶美代
……中略……
この頃は、厳しい取調べなどがありますので、油断はならず、
屋敷の外へは一歩もでておりません。
誠に残念とも悔しいとも申すに余りあることです。
そのようなことで、孝明天皇様のお考えも、殿様の志もちっとも貫徹できず、
誠に楠木正成や新田義貞の志を持たねばならぬ時世になりました。
少しも緩んではならぬご時世と私も夜昼なく苦労しております。
先頃、小田村兄様も京都にお立ちの折、
二男(久米次郎)の方を養子にもらいましたので、
皆様に相談してもらってください。
小太郎殿、お千代殿も成人されて喜んでいます。
いずれもだいたい、めでたくかしこ。
8月29日 よしすけ(義助)
お文どのへ
《私は已むに已まれぬ事情があって、よしすけと名を改めました》
雑音に血潮の声が混じってる 北田惟圭
玄瑞自筆手紙ー小田村宛
「元治元年3月25日の手紙」
たびたびお手紙をいあただき、
まず差し障りがないことで安心しました。
私も去る19日に藩の用があって山口まで帰ったので、
安心してください。
……中略……
久米次郎も無事に過ごしているようで、大いに安心しました。
いずれも早く成人して藩のお役に立つようになってほしいと
日夜祈っています。
これも結局、親の育て方であるから、よくよく気をつけられ、-
教え諭すことが大事だと思います。
さて去る4日、京都東山の霊山というところで、
ご先祖の祀りをしました。
御神位もそこの神主・村上丹後という人に祀ってくれるように
頼みおきましたので、そのようにお心得ください。
このたびは、右の次第ですから久米次郎などへ何の土産もなく、
申し訳なく思います。
杉皆様へよろしくお伝えくださるようお願いします。
吉田稔麿もこの頃上京して健やか過ぎるほど、
健やかにしていますので、稔麿の母上にお伝えください。
3月25日 善助
お文どのへ
《なお下女などおいたほうがいいでしょう》
(下女の件は、養子を受けて文も一段と忙しくなったことへの配慮である)
美しい耳を借りてるセレナーデ 八木侑子
「元治元年6月6日の手紙」
……前略……
昨日久米次郎が来て、久しぶりに対面し非常に喜んで、
昨日も一緒になました。
久米次郎の大小の刀も大坂に注文しておきましたが、
このたびは間にあいませんでした。
いずれ大坂に上ったうえは、大小調えて早々に送ります。
……中略……
佐々木おば様、杉家の皆様、小田村、玉木へもよろしくお頼みします。
久米次郎は1日2日とどめおきます。
まことにお利口に遊んでおりますので、安心してください。
玄瑞の手紙はこの元治元年6月6日で終わっている。
同年7月19日の蛤御門の変で玄瑞は自刃し、
25より齢を数えることはなかった。
あら磯によせ来る狼の岩にふれ千々にくだくるわがおもひかな
髪梳いて縁のなかった人と知る 森中恵美子
おもい
22歳で未亡人になった文は、玄瑞の意志をついで愛情いっぱいに、
久米次郎を育てていた。
ところが、5年後の明治2年、文に衝撃的な出来事が起こる。
玄瑞の京都での愛人
佐々木ひろとの間に出来た
秀次郎という
隠し子のいることが発覚したのである。
その男の子は、
「玄瑞そっくりの顔だ」
と言う
品川弥二郎らの証言で、玄瑞の忘れがたみとして
藩に認知され、突如、文の前に現れたのである。
胃カメラに活断層の如きもの 三宅保州
隠し子というよりは、正確には、玄瑞本人すら
その存在を知らなかった可能性もある子どもである。
文にとっては寝耳に水の出来事だったに違いない。
久米次郎を手塩をかけて育て、
久坂家存続ために努力してきたことは何だったのか。
そこには複雑な思いがあっただろう、
久米次郎は姉・寿の子であり、自分にとっては甥である。
まがりなりにも血の繋がりはある。
一方、秀次郎は愛する玄瑞の子とはいえ、
花街に身を置く女性との間にできた子なのだ。
が、何より家の存続が大事だった当時のこと、
今の感覚で捉えきれることはできない。
やがて文はこの子を、久坂家の跡取りとして受け入れ、
明治12年、正式に秀次郎久坂家を継ぐことになる。
そして久米次郎は、楫取家に戻ることになる。
タコの子と同じ顔した柘榴の子 山内美代子
通説では、この京都妻・
井筒タツは、
明治2年に息子が認知されるのを見届けたあと、
その翌年、京都島原の揚屋角屋の10代目当主と
自分が芸者として出ていた桔梗屋の女将の仲立ちで、
下京の裕福な農家の
竹岡甚之助と結婚している。
しかしタツは、慶応元年、辰路という名前で芸者にでているとき、
仲居たちの噂になるほど、玄瑞と親しかったために、
秀次郎の母がタツと誤解されたものといわれ、
実際の母は、
佐々木ひろという名の女性だと述べている。
本当の父さん他にいるんだよ 井丸昌紀
楫取道明(久米次郎)は前列左
国の方針として、教育強化のために台湾に出向いた6氏
楫取道明、関口長太郎、中島長吉、井原順之助、桂金太郎、平井數馬
その後、久米次郎は楫取家に戻ることになり、
父と同じ教育者の道を歩みだす。
日清戦争後勝利後、教育者の一員として渡った台湾台北において、
日本統治をよく思わないゲリラに襲われ、
六氏とともに
楫取道明は一命を落としている。
38歳であった。
(子孫ー道明のひ孫・楫取能彦氏は現在・博報堂第一営業局局長代理)
束の間の満月だった一家族 竹井紫乙 [2回]
PR