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川柳的逍遥 人の世の一家言
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つまずけば人間だもので済まず  藤本秋声

 (各画像は拡大してご覧下さい)
 左から二人目武廣遜

「騎兵隊ー1」

文久3年(1863)3月、14代将軍・徳川家茂と、

その後見役の一橋慶喜は朝廷や長州藩などの執拗な要求に押され、

5月10日をもって、攘夷を決行することを約束する。

しかし、実際に攘夷を行動で示したのは長州ただ一藩だけであった。

この日、馬関を通過しようとしていたアメリカ船に向かい、

長州の砲台が火を噴いた。

さらに続いてフランス、オランダの船にも砲撃を加えたのである。

しかしアメリカ、フランスから報復攻撃を受け、

軍艦や砲台を破壊されてしまう。

悔しいがここは脱帽他日期す  森清泰範


四国艦隊によって占拠された長州藩の砲台。

砲台の脇に立っている人物は軍服を着用していないので、
外交官や通訳といった役割のひとと思われる。

外国の圧倒的な軍事力を身を以って知らされた長州藩は、

萩で隠棲していた高杉晋作に下関の防備を一任する。

そこで晋作は、

6月6日、下関に赴き地元の商人・白石正一郎の居宅で、

外国の攻撃の際に、逃げ惑うばかりだった武士に、

藩の守りを任せることをやめ、身分を問わず、

藩を守る気概に満ちた人材を集めることにした。

こうして町人や農民も参加していた「騎兵隊」を結成。

翌7日に藩庁政府に騎兵隊の綱領を提出し、

27日には騎兵隊の総督を任されている。

骨のあるクラゲ突然出家する  上田 仁


   騎兵隊石碑

騎兵隊の母体となったのは、

久坂玄瑞が下関の光明寺で結成した「光明寺党」で、

最初に入隊したのは、15人と『騎兵隊日記』には記されている。

有志、すなわち志ある者は、身分にかかわらず参加を認めた。

長州藩では正規武士とは一線を画す「長州諸隊」という、

近代型の軍隊であった。

晋作は実際には、わずか2ヶ月ほどしか総督の座におらず、

以後、河上弥市、滝弥太郎、赤禰武人などが総督となり、

その後は名目だけの総督が立てられたりもしたが、

元冶元年(1864)以降は、隊の実権を握っていたののは。

山県有朋だった。

成り行きでわたしが長になりました  一階八斗醁


   武廣 遜

実際のところ、騎兵隊に参加したのはどのような人だったのだろう。

名簿総数640名のうち、武士出身が49・6%

農民出身が40・3%、町人出身が5・0%、寺社関係者が5・1%

見ての通り、実際には約半数が武士、半分が農民を含む庶民という

構成になっていたことが、『長州藩騎兵隊名簿』で分かる。
               たけひろゆずる
文頭の写真の帽子を被った武廣遜九一)は農民出身ながら、

実力で騎兵隊6番隊副隊長にまでなった。

常々写真に紹介される彼こそ、騎兵隊を象徴する人物といえる。

(ちなみにこの武廣は、昭和10年の西南戦争で戦死している)

定規より少し利口な分度器  筒井祥文


   高杉晋作像

騎兵隊がなぜ、旧来の正規兵にはない「強さ」があったのか。

最大の理由は、西洋式の「散兵戦術」を駆使したことにある。

散兵戦術とは、最初、密集していた軍隊が、

進むにつれて広く散会していく戦い方で、

基準となる兵から一分間に、

180歩という猛ダッシュで広がっていくため、

あらかじめ相当に訓練していないと難しい。

兵が広く散会すれば、隊長の指揮、命令は届かなくなる。

つまり各兵士、各部隊長は全体の戦術を理解した上で、

こべつの判断で動かなくてはならない。

猛訓練を積んでいないとできない戦術なのだ。

風の吹くままにノド飴しみてくる  山本昌乃


騎兵隊が生まれた白石正一郎の居宅

寄せ集めの自律性もなく、褒章や評価ばかりを求める幕府の兵士と

比較して、騎兵隊は全く真逆の組織だった。

騎兵隊は有志の集まりであり、

しかも実力しだいで武廣のように、指揮官に出世もできる。

総じて、隊員の出世意欲をかきたて、勉学にも軍事訓練にも、

積極的に取り組むことを後押しするシステムが、騎兵隊にはあった。

そもそも戦いに臨むモチベーションが違った。

これまでの有造無造を束ねよう  宇治田志寿子

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