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川柳的逍遥 人の世の一家言
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ライオンの昼寝に出会う現在地  菅野泰行


      池田屋密会場所再現写真

「池田屋事件」

8月8日の政変以降、京都は公武合体派が実権を握っていた。

しかし長州藩の攘夷派や三条実美らは、そうした逆境にも屈せず、

再び京へ復帰することを画策していた。

また元治元年(1664)6月13日には、

毛利藩世子・定弘が本隊を率いて京に進発することが決定していた。

そんな折に京都において、クーデターを計画していた攘夷派が

集まっていた三条木屋町の旅籠「池田屋」を新撰組が急襲した。

6月5日のことである。

請け負った刺客はネコに化けていく  井上一筒


 永倉新八

新八は新選組の副長助勤として近藤勇らとともに池田屋へ斬り込んだ。
新選組随一の遣い手として幾多の戦闘に加わり、十三人の大幹部のうち、
ただ一人生き残った。

「新撰組として一番最初の仕事が”池田屋事件”」

テロを計画していた長州藩士を中心とする、過激派の藩士たちを、

新選組が斬り捨て、幕末動乱のきっかけを生んだ「池田屋事件」

実は、池田屋にいた勤王の志士たち、二十数人に対し、

当初、邸内に突入した新選組は、総勢34名のうち、

近藤勇・沖田総司・永倉新八・藤堂平助のわずか4人だった。

「御用改め、手向かいいたすにおいては、容赦なく斬り捨てる」

これが近藤勇の斬り込み時に発した最初の言葉である。

そんな少数のなか、沖田は戦闘中に持病の喀血で戦線から離脱。

藤堂もまた、汗で鉢金がずれたところに、太刀を浴び、

額を斬られ戦線を離脱した。

痛み痒みギブスは何も答えない  山本芳男

かたや倒幕集団の土佐藩の望月亀弥太らは、

裏口から必死に脱出をはかり、

そこを守っていた新選組み浪士たちと、斬り合いになった。

3名の浪士安藤早太郎、奥沢栄助、新田革左衛門は、倒したものの、

望月亀弥太も深手を負う。

そして長州藩邸付近まで逃げたものの、

追っ手に追いつかれ望月は自刃。

一方、新撰組側は、一時は、近藤・永倉の2人となるが、

土方隊が応援に入り、戦局は新選組に有利に傾き、

9名討ち取り、4名捕縛の戦果を上げる。

勝利の背景には、武士身分でないが故に、手柄を挙げて、

「武士になりたい」という隊士たちの悲壮な、思いがあった。

真剣になるまで研いでいる竹光  板野美子

戦闘後に、会津・桑名藩の応援が到着した時、土方歳三は、

手柄を横取りされぬように、一歩たりとも、近づけさせなかった。

そして、新撰組の面々は、闇討ちを警戒し、翌日の正午になって、

壬生の屯所に帰還。

沿道は、見物人であふれていた。

この戦闘で、数名の尊攘過激派は逃走したが、

新撰組は、翌朝の市中掃討で会津・桑名藩らと連携し20余名を捕縛。

市中掃討はふたたび激戦になり、死闘の末、

会津藩5名、彦根藩4名、桑名藩2名の即死者を出した。

                〔ー永倉新八の報告書より〕

(新撰組は、この「池田屋事件」で名を上げるが、
   逆に、幕末騒乱の火薬庫に引火させたといってもいい。
   この事件から時代は、物凄い勢いで流れていく)

指めがねあの世も細い雨が降る  梅崎流青


 吉田俊麿最後の死闘

帰国していた玄瑞には、難を逃れた桂小五郎から一報が入った。

長州藩士・土佐藩士などの尊皇攘夷派志士の多くが、

新撰組に斬り捨てられ、または捕縛された。

斬り死にした中には、松下村塾の朋輩・吉田俊麿や、

松陰の盟友・宮部鼎蔵もふくまれている。

これに激怒した長州藩の過激派は、

平和的な解決を望んだ慎重派を抑え込み、

武力を用いてでも京へ向かうことを決意する。

ヤッホーが向こう岸から戻らない  嶋澤喜八郎


 来島又兵衛上申書案

そして同月15日、来島又兵衛が遊撃隊300人を率いて先発し、

翌16日には家老・福原越後の460人と真木和泉、入江九一

久坂玄瑞が出発。さらに家老・国司信濃も続いた。

先発した玄瑞ら長州勢は、約2千。

玄瑞は21日に大坂に到着し、300を率いて淀川を遡り、

京都への入口である山崎、天王山を占拠し本営とした。

他の隊は伏見、嵯峨などに布陣した。

しかし玄瑞は、戦に逸っていたわけではない。

武力を背景にして、長州の冤罪を訴えるのが目的だった。

ゆえに朝廷、幕府、在京諸藩主に嘆願書を差し出した。

忍耐を磨く地獄の一丁目  西美和子

こうした長州の行動に孝明天皇は不快感を示し、会津や土佐、

そして薩摩などが長州と睨みあう。

7月18日、玄瑞らは、

筆頭家老、益田右衛門介が陣取った男山で軍義を開いた。

即決戦を主張する来島らに、玄瑞は、

「一旦、兵庫まで退いて世子の到着を待ち、

   大軍を擁して京都にはいるべきである」 と宥める。

この時点での玄瑞の目的は、あくまで長州藩の失地回復であり、

その上で異国の脅威を斥ける日本をつくろうとの決意を抱いていた。

血と汗と油絵具が塗ってある  牧野芳光


   大専坊跡 (遊撃隊が本陣とした)

しかし来島は容れず「臆病者」と罵倒する。

玄瑞は歯噛みをした。

藩主・敬親からは「先に手を出すな」と強く命じられていたが、

もはや止めようがなかった。

軍議後、玄瑞は入江九一らと淀川の谷水を手ですくい、

永久の別れとして水杯を交わした。

同日夜半、長州勢は伏見、嵯峨、山崎の三方から遊撃を開始。

来島、国司らの部隊は、御所の中立売御門や蛤御門に向かった。

鴉止まれりバーコード付きの門  筒井祥文

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