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川柳的逍遥 人の世の一家言
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有為転変いろはにほへと散りぬるを  岡田陽一



       長州藩の攘夷戦を描いて絵

「文久3年(1863)」

「文久から元治」へ、幕末がいちばん慌しくなったときである。                                                    
江戸から京へ、京から江戸へ、萩からも薩摩からも京へと、

人が動いた。

そこには、幕末を象徴する出来事が起きる。

長州藩による関門海峡での外国船砲撃や「薩英戦争」

京都では「八月十八日の政変」といわれる

佐幕派のクーデターが起き、

京都を牛耳っていた「攘夷派」が、一掃され、

次への事件を誘発していくのである。

流鏑馬の刹那の風になりにゆく  山本早苗


        御楯組血盟書

「文久三年の出来事」

  3月04日  徳川家茂入洛(家光以来229年振り)新撰組結成。
  3月07日  徳川家茂 参内し孝明天皇に拝謁。
  3月15日     高杉晋作、頭を丸めて名を「東行」と改める。
  4月20日     徳川家茂 朝廷に攘夷期日を「5月10日」と約束。
  6月10日        攘夷決行(馬関戦争火蓋を切る)
  5月12日        井上聞多、伊藤俊輔等、長州5傑禁を犯し渡英。
  6月01日        馬関にて米国軍艦に長州の軍船2隻撃沈される
  6月06日     高杉晋作 白石正一郎邸に入り「奇兵隊」編成開始。
  6月27日        英船艦7隻、生麦事件の責任を問い鹿児島湾に入る。
  7月02日  「薩英戦争」 英国艦隊、鹿児島を砲撃。  
     8月ー      天誅組挙兵。
  8月18日 「八月十八日の政変」 大和行幸中止。
  8月19日 「七卿の都落ち」
         新選組 三条木屋町に桂小五郎の捕縛に向う。
  9月27日    天誅組 大和で壊滅 吉村寅太郎死亡。
    11月19日        米国公使、将軍家茂に国書を呈し鎖国の不可を陳ず。
 12月15日        三条実美、萩より三田尻に帰る。
 12月24日        長州藩が外国船と誤って薩摩の船を撃沈する。

あかりを下さい 先が見えないのです  安土理恵


 長州藩の軍艦-庚申丸

孝明天皇の強い希望により、将軍徳川家茂は、

文久3年(1863)5月10日をもって攘夷の決行を約束する。

これをきっかけに、

武力をもって外国の勢力を追い払おうと考えたのが、長州藩であった。

もともと長州の藩論は、幕府が締結した不平等条約の破棄と、

強硬な攘夷実行が主流だったからである。

しかし、幕府は攘夷を必ずしも、軍事行動とは考えていなかった。

そんな幕府の態度に業を煮やした長州藩は、

馬関海峡を通過する外国船に対し単独で砲撃を仕掛けたのである。

底に着いたら挑戦状を突きつける 立蔵信子
  
   
英国軍に占領された前田砲台

だがその報復として翌月には、

アメリカとフランスの軍艦が長州藩所有の軍艦や砲台を砲撃。

壊滅的な打撃を加えたのである。

しかし長州藩はそれにめげることなく砲台を修復。

対岸の小倉藩領の一部をも占領し、

ここにも砲台を築いて海峡の封鎖を続けた。

甲冑の紐がほどけたままの湖  くんじろう


      外国の砲弾と外国の砲弾

ところが馬関海峡で攘夷のための砲撃を実行している長州藩に

同調する藩は現れない。

しかも欧米艦隊から同藩が攻撃されても、

近隣の藩はただ傍観するばかり。

6月になると、

攘夷の実行を約束していた将軍家茂も江戸へ帰ってしまう。

業を煮やした久留米の真木和泉久坂玄瑞ら、

急進的な攘夷論者たちは、

天皇による攘夷親征(大和行幸)の実行を画策した。

にっちもさっちも蛍一匹さしあげる  田口和代

だが、孝明天皇は攘夷論者ではあったが、

攘夷の実施などは幕府が中心となって行なうべきものと考えていた。
                           さねとみ あねがこうじきんとも
そのため朝廷内の攘夷急進派である三条実美姉小路公知らの

横暴ともいえる行動を内心では、不快に感じていたのである。

天皇は三条らを排除するため、島津久光の上京を期待していたが、

「薩英戦争」の影響もあってそれは叶わなかった。

攘夷親征の先駆けとなる大和行幸の詔は、

8月13日に発せられる。

それとともに会津藩・薩摩藩を中心とした公武合体派は、

尊攘派を一掃するために動き出した。

それはまだ世間知らずの蜃気楼  河村啓子



818の政変により京の都を追われた尊皇攘夷はの三条実美ら
7人の公家が、夜も明けない雨の早朝に長州へと落ちていく。
随行者には玄瑞の姿もあった。

まず、8月15日に京都守護職の松平容保の了解を得て、
                       ていじろう     あさひこしんのう
薩摩藩の高崎正風と会津藩の秋月悌次郎中川宮朝彦親王を訪ね、

親王を擁して尊攘派を一掃する計画を打ち明けた。

翌16日には、中川宮が参内して天皇を説得。

翌17日には、天皇より中川宮へ密勅が下る。

そして、運命の8月18日、

長州藩にとっては、信じ難い出来事が起こったのである。

スマホから頚動脈にメールあり  井上一筒

大和行幸は延期。

この日の早朝、御所の各門は会津、薩摩、淀の藩兵により固められ、

長州藩が守っていた堺町御門の警備の解任。

尊攘派公家と長州藩主父子の処罰が決定。

在京の諸藩主に参内の命が下り、

さらに三条ら尊攘急進派の公家には禁足、面会禁止が命ぜらる。

同時に、攘夷派公家の三条実美沢宣嘉ら7人を排除したのである。

うどんやも蟻のノレンに替えて夏  山本昌乃

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