ビーナスの鼻はめがねを掛けにくい 井上一筒
高杉晋作
高杉晋作は、小柄で本人もそれを気にしていたため、
立って写っている写真はない。
しかし小柄ではあったが、何故か長刀を好んで愛用していた。
そのため歩く姿は、刀を引きずって見えたという。
「騎兵隊ー2」
高杉晋作は、
「騎兵隊創設」にあたり、次のように述べている。
「兵には正と奇とがあり、戦には虚と実とがある。
正兵は正々堂々として敵に対し、実をもって実にあたればよい。
藩の部隊がまさに、正兵であろう。
しかるに寡兵(小兵)をもって敵の大兵の虚を衝き、
神出鬼没の兵があってもよい。
私が創設する部隊は、常に奇道をもって相手を悩まし、
勝利を制するのが目的である。
よって、この部隊を”奇兵隊”と名付ける」 と。
泡立ちのよすぎる男ちょっとシャイ 雨森茂喜
高杉晋作・産湯の井戸
しかし、長州藩の正兵はすでにある。
晋作は、義や徳を重んじる男でもある。
藩主にお伺いを立てなければならない。
「そうせい公」の異名をもつ、長州藩主・
毛利敬親に、
申し立てたところ、
「緊急時だから、そうせい」 と快諾が下りたのである。
高杉のこうした考えに、反感をもつ長州藩士も多かった。
追いかけられる、命を狙われるで、
地元・萩で
「奇兵隊」を創設するわけには行かない。
午睡から覚めてらくだの顔になる 藤井寿代
奇兵隊は、農民・僧侶、下級武士、商人の寄せ集め部隊だった。
そんなわけで、晋作により、馬関で結成された
「騎兵隊」は、
和洋折衷の軍服で、隊士の意識と機動力とを高めるとともに、
理解しやすい隊則で組織をまとめた。
例えば、
「農道で牛や馬に出会えば、奇兵隊士は道を譲って、
通り抜けるのを待て」
とか、
「農家に押し入って動物とか物品を奪ってはいけない」
など、隊則は理解しやすい内容をもって、
組織の集中力を強化することに、成功した。
月面にロングシュートを決めてみる 畑 照代
騎兵隊の結成地となった白石正一郎邸跡
「騎兵隊誕生は松陰の発想から」
長州藩は幕末の対外的危機を迎えたときに、
三方を海に囲まれていたため、
その危機を他藩よりも深刻に受け止めた。
そして長州の志士は、
アヘン戦争などにみる西欧列強の実力を正確に理解し、
植民地化を避けるためには、何が必要かを真剣に検討していた。
その代表的な人物が、
松陰であった。
松陰は開国を迫る西欧列強に対し、ただ戦いを避けたいがために
いいだくだく
「唯々諾々と従うのは、かえって植民地化を招く」
と指摘し、一方で、西欧に対抗するためには、
「西欧近代文明に学ばなければならない」と主張。
ふきどくりつ
松陰がよく使う言葉に、束縛のない独立を意味する
「不羈独立」
があるが、
「長州も、そして日本も、独立を守らなければならない」
という思想が松陰の根底にあった。
梟もニャンと鳴きたい時がある 倉 周三
騎兵隊の創設者は、高杉晋作だが、
その師である松陰の
『愚論』には、
騎兵隊の基本構想につながる発想がすでに表れている。
松陰は、封建的な身分制軍隊は、石高に応じて兵を集めるという
「数合わせ」にすぎないので、決して強くないと見破り、
つかまつ
「一戦仕るべしと願出で候もの」 つまり
「有志を登用しなければならない」と喝破している。
有志にさまざまな役割を与えて評価してやれば、
強力な軍隊が作れる。
そしてその費用は、家柄だけで高禄を貪る者に出させばいいと、
松陰は断じている。
中七に八分休符が利いている 井丸昌紀
また松陰の著した
『西洋歩兵論』には、
「足軽以下、農民に至るまで、
しっかりと演習させれば、いずれ精兵となるであろう」
と記されていて、
身分を超え、庶民を西洋歩兵とするという発想を
松陰が持っていたことを端的に示している。
日本的、復古的といったイメージが強い松陰だが、
実際には西洋に学び、西洋的軍隊を作らなければならないという
開明的な思想の持ち主だったことが分かる。
その薫陶を受けた晋作が、騎兵隊を創設するのは、
自然な流れだった。
羞恥心なくせば一気にスターダム ふじのひろし[2回]
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