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川柳的逍遥 人の世の一家言
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生きたまま製氷室を出入りする  河村啓子

(各写真は拡大してご覧下さい)
  菊が浜土塁屏風

文久3年、馬関海峡における外国船からの報復事件をきっかけに、
萩の住民の間にも「自らの手で城下を守ろう」とする機運が高まり、
外国からの再襲撃に備えるた為、萩藩は日本海に面した菊ヶ浜に、
土塁の築造するよう領民たちに命じた。

武士たちの留守をあずかる老若男女たちは、身分や貧富を問わず、
奉仕作業し、この時ばかりは滅多に外に出ることのなかった武士の
妻や奥女中までが参加したという。

極まれば涙も出ないものと知る  岡本 恵

 (各写真は拡大してご覧下さい)

このときの作業唄として歌われたのが山口県の民謡「男なら」である。

【男なら】歌詞

男なら  お槍かついでぇ   お中間んとなって
ついてゆきたや下の関    お国の大事と聞くからは
女ながらも  武士の妻   まさかの時には しめだすき
神功皇后さんの 勇々しき姿が鏡じゃないかいな
オオシャリシャリ

 「(もしも私が)男だったなら、槍を担いで中間として下関について行き、
   外国との戦に参加をしたい。
   自分も女ではあるが、武士の妻であるから、

(敵の軍勢が萩に攻めてくるようなことがあったら)神功皇后のようにこの国を守る」
「オーシャーリシャーリ」とは(おっしゃるとおり)という意味

男なら三千世界の 烏を死なす   主と朝寝が してみたい
酔えば美人の ひざまくら   さめりゃ天下を 手で握り
咲かす長州 さくらの花    高杉晋作さんは 男の男よ
傑いじゃ ないかな        (オオシャリシャーリ)
どうせなら明るく楽しく生きましょうと意味をこめているのだろう。
 (3番の歌詞では、高杉晋作の作った都々逸をもじっている)

計り売りしておりますよ今日の空気  北原照子


            女台場

萩の菊ヶ浜沿いの海岸に女たちが中心になって築いた土塁
高さ3メートル、幅12メートルの土塁が50メートル
比較的よく旧態を保っている。


ワーグマン下関戦争の絵

「長州の危機」

文久3年(1863)5月10日、幕府やその他の藩が躊躇する中、

ひとり攘夷戦を決行した長州藩。

馬関(関門)海峡付近を航行する外国船への砲撃を行なった。

しかし、その結果はアメリカとフランスの軍艦に報復され、

貧弱だった長州海軍は壊滅、砲台も破壊された。

さらに外国からの攻撃をうけている際、長州藩内では一揆が勃発。

外国の軍隊に協力する領民まで現れる始末だった。

うかつにも直し忘れた未来地図  新川弘子             


馬関に錨を留める外国艦隊

その後、長州藩は8月18日の政変で京都を追われ、

さらに冤罪を晴らす目的で兵を御所に向けやが、

手痛い敗北を喫した。

それでも攘夷の姿勢を崩すことなく、

馬関海峡は修復された砲台により、閉鎖されたままであった。

この事態は日本との貿易を行なう諸外国にとって、

大いなる不都合を生じた。

この時期、アジアで最強の戦力を保持していたのは

イギリスだったが、対日貿易での利益は順調に上がっていたうえ、

海峡封鎖では、イギリス船が直接被害を受けていない。

そうしたことからイギリス本国は、

多額の戦費のかかる武力行使には消極的であった。

半熟のままで主張を持ち歩く  大嶋都嗣子


 受難続きのイギリス

一度目、日本初のイギリス公使館(高輪)が水戸藩浪士に襲撃され。
2度目はオルコックが帰国している間に、代理公使ジョン・ニール
の寝室に松本藩の浪士が侵入している。’写真左)
右・オルコック

しかし駐日公使のオールコックは、海峡が封鎖されていることで、

長崎での貿易が麻痺状態となっていることを問題視した。

加えて攘夷運動が全国的に波及することも危惧したのである。

実際、幕府が横浜港を閉鎖したい旨を持ち出している。

オールコックはこの際、

「西欧文明の実力を思い知らせ、攘夷などは不可能なことを

   日本人に痛感させる」 ことを思いついた。

この考えに実害を受けたフランス、オランダ、アメリカも同意し、

元治元年(1864)4月に四カ国連合艦隊による、

長州への武力行使が決定する。

タグ付けて越前蟹がやって来る  佐波正春

英国留学中であった伊藤俊輔井上聞多が6月10日に緊急帰国。

オールコックに面会し藩主の説得を約束した。

オールコックも承知し、2人を軍艦で豊後まで送る。

伊藤らは藩庁に到着し、藩主・毛利敬親や藩の重役たちに

戦いの無謀さを説いたが、説得することはできなかった。

竹の皮に包んでおく喧嘩状  井上一筒
  

  占拠された長州の砲台

長州藩は米仏艦による報復攻撃で破壊された砲台を修復し、
引き続き海峡封鎖を行なった。
しかし、17隻の艦隊と陸戦隊により占拠・破壊された。

7月27日から28日にかけて、

17隻からなる四カ国連合艦隊が横浜を出航。

総員は5000人という兵力を有していた。

8月4日になり艦隊接近を知った長州藩庁は、

ようやくことの重大さに慌てた。

というのも同じ頃、朝廷から勅命を受けた幕府は、

尾張、越前および西国諸藩を以って征長軍を編成していたからだ。

結局、8月5日の午後になり、

連合艦隊は前田から壇ノ浦にかけての砲台を粉砕。

さらに前田浜に陸戦隊を上陸させ、砲台を占拠・破壊。

翌日は山縣狂介(有朋)が一時敵艦を砲撃して混乱させるが、

態勢を立て直されると陸戦隊が上陸。

下関市街へと向かい進軍を開始する。

8日には高杉晋作が家老の養子・宍戸刑部を名乗り、

講和の使者に立った。

幾層の闇 剥がしても剥がしても  赤松ますみ

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