ある時は熟れたバナナで釘を打つ 本多洋子
三田尻御茶屋
萩藩2代藩主毛利綱広によって設置された萩藩の公館で、
藩主の参勤交代や領内巡視時の休憩、また迎賓に使用された。
「長州藩の御茶屋」
長州藩の
「御茶屋」は、藩主が参勤交代や城内巡視する折、
宿泊や休息のために利用するほか、
幕府の役人や諸藩の大名の迎賓館として用いられた。
藩庁のある萩は、日本海に面している為に
情報の伝達に時間がかかった。
そのため、激動の時代に藩主となった
毛利敬親は、
萩から瀬戸内海に至る街道などに設置された複数の御茶屋に滞在し、
政務の多くをそこで行なった。
伝統という磐石の包み紙 三村一子
藩主謁見の間及び庭
その一つ、
「三田尻の御茶屋」は、承応3年
(1654)
2代藩主・
毛利綱広によって建てられた。
瀬戸内海に面した三田尻は、
古くから水運の要衝として栄えた港町である。
毛利水軍の根拠地でもあった。
三田尻はまた、瀬戸内の製塩業の西の中心地でもあり、
塩の生産と販売の統制に当る役所が置かれた。
8月18日の政変で長州に逃れてき
三条実美ら7人の公卿を、
最初に迎え入れたのも、この御茶屋であった。
入口が二つで出口も二つある 河村啓子
もう一つの重要な御茶屋は、
「山口の御茶屋」と言い、
敬親は、長州藩の中心に位置する要のこの地に、
三田尻以上に長く滞在している。
文久3年
(1863)晋作はここで敬親に騎兵隊結成を上申した。
幕府への武備恭順が決められ、
2ヶ月後にはそれを翻す倒幕方針が宣されるなど、
衆議が沸騰したのもここだった。
脳内をたまにひょうたん島にする 田中博造
一力茶屋
「茶屋」
江戸時代後期には、寺社の門前、芝居小屋の周辺、
遊郭の内外などに、飲食や遊興、あるいは貸席などを業とする
「茶屋」が数多く生まれていた。
一方、政治の世界では、
勤皇派と佐幕派が激しい争闘を繰り広げていた。
「茶屋」をはじめ、
「料亭」「旅籠」などは、
勤皇の志士ばかりでなく、幕府や諸藩の佐幕派の役人たちや
新撰組などに、秘密裏の会合を持ち、
情勢や人の動きなどの情報を交換し、
襲撃計画を立てたりするための場を、
提供するようになっていた。
重なっているので明日が見えにくい 大嶋都嗣子
お茶屋街
諸藩と茶屋・料亭・旅籠などとの間には、
いつしか連帯関係が生まれ、
「定宿」が決まっていった。
うおしな
京では、長州藩の
「魚品」(祇園縄手)、薩摩藩の
「寺田屋」(伏見の船宿)
肥後藩の
「小川亭」(鴨川東)、土佐藩の「曙亭」
(清水坂)などである。
わちがい
新撰組は下京区西新屋敷の置屋・
「輪違屋」を馴染みとしていた。
とはいえ、長州藩の久坂らが使った
「角屋」や
「一力亭」などは、
新撰組も出入りしており、勤皇派・佐幕派を問わず、
さまざまな立場の人に場を提供していた。
図太くも賽銭箱で発芽する 筒井祥文
茶屋や旅籠に伝説を残した人物もいる。
寺田屋の女将・
登勢は姉御肌で、体を張って志士たちを庇護した。
小川亭の主人・
ていは
「勤皇ばあさん」と呼ばれて、
志士たちに信頼された。
玄瑞の馴染みの芸者・君尾は、一力亭で薩摩藩の
西郷隆盛と
新撰組の
近藤勇を袖にしたというエピソードがある。
太目が好き細目が好きと使い分け 三好聖水
翠紅館にかかる看板
「翠紅館」と「送陽亭」
西本願寺が建物内の二つの部屋を提供された茶室・翠紅館は、
三条実美、桂小五郎、坂本龍馬ら、志士たちの会合に使用した。
文久3年1月27日には、土佐藩 武市半平太、長州藩 井上聞多、
久坂玄瑞ら多数が集まり、
同年6月17日には、長州藩 桂小五郎、久留米藩 真木和泉守らが
攘夷や討幕などの具体的方策を検討。
京都・翠紅館内の送陽亭では、桂小五郎、武市半平太、久坂玄端、
井上馨、真木和泉守が集まり、会合を開いている。
吊革をぎゅっと握ってアジア立つ 井上しのぶ
川柳集・『末摘花』初篇の挿絵に描かれた出合茶屋
もっとも有名な不忍池のほとりの出合茶屋は平屋だった。
座敷を池の上に張り出すように造作していたため、
当時の技術では二階建ては無理だった。
「出合茶屋」
出合茶屋は人目を偲ぶ男女の密会の場として使用された。
川柳や小咄では不忍池のほとりの出合茶屋が有名だが、
実際は江戸の各地にあった。
神社仏閣の門前など人が集まる場所に位置し、
目立たないようにひっそりと営業していた。
出合茶屋の構造は二階建てで、
入口を入るとすぐに二階にあがる階段があった。
川柳集・『末摘花』
出合茶屋 あんまり泣いて 下り兼ねる
階段わきの小部屋に老婆が座っている。
無愛想でろくに目も合わせないが、
男女に決まりの悪い思いをさせないためだった。
客が煙草盆と茶盆を受け取って二階に向かうと、
老婆が履物を下駄箱におさめた。
客に煙草盆などを運ばせるのはあとから行って、邪魔をしないため、
履物を隠すのは、金を払わずに逃げるのを防ぐためである。
指定された二階の座敷にはすでに布団と枕二つが用意されていた。
あとは2人の世界である。
そんなところに挟んだらバレますよ 田口和代
岐阜県大垣市のお茶屋屋敷
「お茶屋屋敷」
慶長14年
(1609)、
徳川家康が上洛する際、中山道の要衝で、
徳川家開運の地であるお勝山の北方に、
自らが上洛の往復をするに当っての
「お茶屋屋敷」を設置した。
設置は美濃国の諸大名に命じ、廻りには土塁や空壕が設置され、
宿泊施設であると同時に緊急時の砦、城郭の要素もあったという。
このお茶屋屋敷は、宿場の本陣の原型となったものという。
交通手段が徒歩に限られていた時代には、
宿場および峠やその前後で見られ、
これらを
「水茶屋」「掛茶屋」と言い、
街道筋の所定の休憩所であった。
又、性風俗を売り物にする店は当時
「色茶屋」と呼ばれており、
その頃は単に「茶屋」と言う場合にはこの「色茶屋」を指していた。
他にも、
「引手茶屋」「待合茶屋」「出合茶屋」「相撲茶屋」
「料理茶屋」など、様々な名称の様々な営業形態の茶屋があった。
雲間から一部始終を見てた月 藤井孝作[2回]
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