明日という「きっと」昨日という多分 河村啓子
「井上九朗右衛門之房」
天文23年
(1554)~寛永11年
(1634)
黒田24騎の中の8虎のひとり。
生れは信濃国高井郡井上が発祥地で、九朗衛門は姫路の海辺松原。
黒田職隆に小姓として仕えたが、職隆は
「役に立つ者であるから重臣として扱うように」
という事で職隆の隠居後も
官兵衛、長政、忠之の黒田家四代に仕え、
栗山四郎、母里太兵衛の間で次席家老に遇されている。
にんべんを繕いコスモス揺れている 嶋澤喜八郎
背も低く力も劣り、戦の経験はなかった。
しかし知恵者で、官兵衛が有岡城に幽閉された際、
商人の姿で牢に近づき様子を窺った。
朝鮮の役では指揮官も務めたが、
非力な彼は陰口を叩かれることもあった。
しかし慶長5年
(1600)9月13日の
「石垣原合戦」で果敢に戦い、
面目躍如の働きをした。
筑前入国後は、黒崎城代となり二万石を拝領した。
後には
徳川家康も九朗衛門の人柄に惚れ、
長男の
井上庸名を五千石の旗本に抜擢した。
陽が落ちて人間臭き人を待つ 森中惠美子
九朗衛門の晩年、
「石垣原合戦」で
大友義統の大将・吉弘嘉兵衛と
馬上での一騎打ちをしている。
九朗衛門はその1対1の勝負に勝利した。
母里太兵衛とは、不仲であったが、
この時ばかりは、母里が絶賛したと伝えられている。
九朗衛門が敵将の首を取ったことを契機に大友義統が降伏、
黒田方の陣に下り、石垣原合戦が終了するこの日の9月15日、
この流れのまま
「関ヶ原合戦」が行われ、東軍が勝利している。
器ではないがいずれはしてみせる 磯部義雄
「福岡藩黒田氏の御家騒動」
元和9年
(1623)福岡藩藩主となった黒田家四代目・
忠之は、
孝高、長政の代からの譜代の功臣を退け、
自分にとって扱いやすい
倉八十太夫らの側近を重用し、
その上、
軍船の建造,足軽隊の増強など、幕令をはばからぬ行為を繰り返した。
栗山利安の嫡子・
大膳は、これを度々諌めたが,
忠之はかえって大膳を亡きものにと謀った。
そして寛永9年
(1632)、大膳は豊後府内藩主・
竹中采女正と共に
江戸に上り,忠之に謀反の心あるの旨を幕府に訴えた。
この時、九郎右衛門は
黒田八虎の一人黒田一成とともに、
藩の側に立ち、府の評定で大膳と相対した。
トトロとすれ違う暗渠の中ほど 井上一筒
忠之には領地没収の沙汰が一度出たが、祖父の代からの実績を鑑みて、
没収の件は情状酌量の採決があって差し戻されたとう。
九郎右衛門は黒田家を守ったが、井上家は大膳と縁戚関係にあったため、
藩主・忠之は、井上家を黒田家から追放してしまう。
追放された井上家は、九郎右衛門の孫の代で無子断絶となり、
井上の血は途絶えた。
尚、九郎右衛門は黒田騒動の2年後寛永11年10月22日に病没する。
切り取り線までは澱んでいたのです たむらあきこ[5回]
PR