ブレーキがうまく使えるようになる 竹内ゆみこ
織田信長 毛利輝元
「織田か毛利か」
官兵衛が家督を相続したころ、
戦国乱世はいよいよ、最終局面に向かって大きなうねりを見せてきた。
尾張の小勢力に過ぎなかった織田信長が勃興してきて、
着々とその版図を広げつつあったのである。
官兵衛が家督を継いだ翌年の永禄11年(1568)、
信長は足利義昭を奉じて上洛し、義昭を15代将軍とした。
やがて近江の浅井長政や越前の朝倉義景を打ち負かした信長は、
畿内で地歩を固めただけでなく、西方へと触手を伸ばしつつあった。
だが西には安芸国に本拠を置き、
中国地方全般に勢力を伸ばしていた毛利家がいる。
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播磨国の小領主たちは生き残りをかけ、
どちらに味方するのかが大きなが大きな問題となっていた。
天正3年(1575)5月、信長と徳川家康の連合軍は、
東国の雄と称されていた武田勝頼の軍を三河国長篠で打ち破った。
こうした情報に触れ6月、小寺政職は御着城に重臣一同を集め、
小寺家に関する対策会議を開いた。
左京進をはじめ多くの家臣大半の意見は、
「これまでの交誼もあるので、律義な毛利家に従うのが得策」
というものであった。
そのなかで、「織田家の味方に付くべし」
と、堂々たる意見を述べたのが官兵衛であった。
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「まず、毛利について申し述べます。
毛利は確かに大国にございますが、先君元就公の遺言に従い、
自国の領土を守るのみで天下を取る気概がありませぬ。
しかも家督を継いだは、まだ若い輝元殿。
采配も振るえぬ若輩者を大将にいただいて、果たして、
あの織田に勝てるとお思いか」
「一方、織田信長は堂々と天下布武を掲げておりまする。
『国を治むる者は義立てば、すなわち王なり』(荀子)
織田は大義を持って、兵を進めているからこそ、
わずか尾張半国から身を起こし、今川義元、浅井、朝倉を滅ぼし、
さらに武田も打ち破ることができたのでござる」
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「その勢いは大河の如く留まるところを知りませぬ。
さらに織田の強みは大義だけではござらぬ。
なによりそのまつりごと。
国を強くするには、民を強くせねばなりませぬ。
織田は楽市・楽座、関所を廃するなど新たな試みを次々と取り入れ、
その領内は繁栄を極めておりまする。
人びとがおのずと集い、財も集まる。
家中においては、門地門閥によらず取り立てるゆえ、
才覚あるものが揃い、万全の構え。
武勇智謀ともに備わった織田信長こそ、
天下人となるに相違ありませぬ」
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強大な武田軍を破ったばかりということもあり、この意見は重みがあった。
毛利派の重臣たちも納得せざるを得なかったため、
織田家に味方することに決まる。
さっそく、岐阜城にいる信長のもとへ、
味方になる意思を伝えに使者を送ることになった。
そこで、
政職は官兵衛に小寺の姓を授け、派遣したのである。
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岐阜城にて、まず秀吉に謁見すると、中国方面の攻略法を開陳した。
この時が官兵衛と秀吉との運命の出会いである。
その後、無事に信長との対面を果たすことが出来た官兵衛は信長の前で、
「中国地方を切り従えるためには、織田家の中からよい大将を派遣するべき」
と主張、そして小寺家が道案内を務めると約束をした。
官兵衛は中国方面の政情に精通していたからだ。
この官兵衛の策を聞いた信長は、官兵衛を気に入り、
秀吉を播磨攻略に差し向けることを決め、
官兵衛にその支援を命じたのである。
同時に官兵衛の立ち振舞い、見識の深さに感心した信長は、
愛刀の「圧切長谷部」を下賜している。
関門を無事にくぐった顔である 徳山泰子
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