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川柳的逍遥 人の世の一家言
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指切りのきっとはおとぎ話です  美馬りゅうこ



長浜城の構造復元図 (長浜博物館)

秀吉が浅井長政の旧領を織田信長から拝領したとき、

この地は「今浜」と呼ばれていた。

秀吉は信長から一字賜って「長浜」と改称し、

浅井氏の居城・小谷城などから、資材を運んで「長浜城」を築城。

のちに、勝家の甥・柴田勝豊が城主となったが、

秀吉に降伏し、賤ヶ岳の戦いのあとは山内一豊が6年間在城した。

その後、内藤氏が城主となるが、まもなく廃城。

その資材の大半は彦根城の築城に流用され、

「天秤櫓」は長浜城から移したものという。

(現在の模擬天守は昭和56年に復元されたもの)

日本の梁は発砲スチロール  杉山ひさゆき
 
 

                             天秤櫓廊下と橋

「秀吉と官兵衛の仲」

天正3年(1575)7月、姫路城をあとに、岐阜城にいる信長のもとへ、

味方になる意思を伝えに赴いた官兵衛は、

秀吉のとりなしで、信長との対面を果たすことが出来た。

この時が官兵衛と秀吉の運命の出会いであった。

官兵衛と秀吉、この二人はすぐにお互いを認め合う。

とくに官兵衛は秀吉の飾らない性格と、

自分を信頼して何でも話してくれる態度に、すっかり心酔してしまった。

その秀吉が信長から中国方面の担当官を命ぜられたのである。

人間関係ならば湯煎をしてみるか  古久保和子

官兵衛は、"この男のために何かせねばならない" と心を奮いたたせた。

天正4年には主君・小寺政職とともに赤松広秀別所長冶という

播磨の三大名を揃って信長に謁見させている。

「小寺家が信長に味方した」

という情報は、まもなく毛利方の知るところとなった。

これを見逃すわけにいかない毛利方は、

まずは官兵衛が守る姫路城を攻略することにした。

この年の5月小早川隆景配下の水軍が5千の兵を率いて英賀の地に上陸。

この大軍を官兵衛は、わずか5百の兵で撃沈せしめた有名な話がある。

「英賀の戦い」である。

山茶花は私の色にきっと咲く  嶋澤喜八郎



「二人の親密度」

天正5年(1577)の英賀の戦いが終了すると、

信長は一刻も早く秀吉を播磨に出陣させようとした。

6月に秀吉は官兵衛に書状を送っている。

この書状の中で秀吉は、

「今後いかなることがあっても隔心なく、相談したい」

とあり、播磨出陣に当って官兵衛を頼りにしていたことが伺える。

官兵衛が中国方面の政情や地理に詳しいので、当然かも知れないが、

秀吉が官兵衛の能力を買っていたことは間違いない。

青い空きみを信じてみるつもり  笠原道子

この書状で秀吉の官兵衛に対する気遣いも伺い知ることができる。

秀吉は自分と官兵衛との関係が人からさげすまれることを憂慮し、

秀吉を憎んでいる者は、官兵衛を憎むであろうことを心配している。

秀吉は一介の百姓から栄達を遂げたため、

周囲の者は決して快く思わなかった。

秀吉の周囲には、本当に信頼できる協力者がいなかったのかもしれない。

従って、播磨出陣に関しては、どうしても官兵衛の力が必要だった。

また、秀吉が官兵衛に改めて送った7月の書状には、秀吉が官兵衛を

「弟の秀長と同然のように思う」 の内容が書かれている。

秀吉は義兄弟という形にしてまでも、

官兵衛との強固な絆を保っておきたいと願っていたようである。

どこよりも遠い自分の足の爪  北村幸子



「ところで、官兵衛がどうして毛利より織田を選んだのだろうか?」

「織田方につくべきだ」

と官兵衛が主君に進言したのは、さすが慧眼という人が多い。

たしかにそういう見方もあるが、むしろ

「自分が信長や秀吉のもとなら、評価され活躍できるだろう」

と思ったことが、大きいのではないか。

信長とか秀吉は、才気走った有能な人物を、門地に関わらず、

取り立てる武将だった。

信長の家臣団の中には、累代の家臣として、

柴田勝家丹羽長秀などもいるが、

近江出身だが出自もよく分らない滝川一益や流浪の浪人だった明智光秀

そして農民出身の秀吉もいる。

その先の夢へと伸びる豆の蔓  たむらあきこ

 
       古天明平蜘蛛

また、松永久秀のような人物すら、上洛時に、

「兄である将軍・義輝を殺した下手人」

という足利義昭の反対を押し切って許し、

その後、一度背いたときも帰順させさせ、三度目も、

「茶器・『平蜘蛛』を差し出せば許す」

といったが、久秀の方がこの名品ともども自爆した。

ともかく信長や秀吉が目指した社会は、伝統とか秩序よりも、

優れた人物が個性を存分に発揮できる、

他所でなら、生意気と片付けられそうな才人にも、活躍の場を与えたことだ。

象だってもっと大きくなりたいさ  田村ひろ子   

官兵衛はそういう噂を聞いていただろうし、

信長のもとに使者として参上したのちは、ますます織田家中なら、

自分が、「水を得た魚のように活躍できる機会が与えられるだろう」

と確信を得たはずだ。

ともかく二人には初対面の時から、お互いを認め合うものがあった。

秀吉と官兵衛は知恵者であり、現実主義者であり、経営の才覚があり、

調略の名人、という似たもの同士である。

違いは、官兵衛にない明るさが秀吉にはあり、

官兵衛には、学があることだろう。

しかし、いずれにせよ、秀吉にとって、官兵衛は、

自分の代理を務めさせることができる稀有な存在だった。

しかし、5年後の「本能寺で信長死す」の報が入ったあたりから、

二人の結束にも影が射し始める。

真っすぐの鉄条網はありえない  森田律子  

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