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川柳的逍遥 人の世の一家言
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凸面に溢れるものが急くものが  杉浦多津子



『稲葉山の月』 月岡芳年

稲葉山城の戦い、一夜城のエピソードで有名な戦。

永禄10年美濃国井之口の斎藤氏の居城・稲葉山城を信長が攻め取った。

絵は1885年芳年作-月光る夜半、若き秀吉僅か7名ほどを引き連れ、

崖をのぼり稲葉山城に裏から潜入する場面を描いている。

「永禄10ー11年」

時は永禄10年(1867)、室町幕府は衰亡の一途をたどっていた。

13代将軍・足利義輝が暗殺されて、2年が経っても、

征夷大将軍の座は空いたままになっており、

義輝の弟・義秋(義昭)がその座を狙っていたものの、

力のない義秋に味方するものは、少なかった。

義秋は京から遠い越前国の朝倉義景の庇護下にあったのだが、

朝倉に天下への野心などなく、

武田信玄上杉謙信も上洛できない状況にあった。

横顔は波打ち際へ辿り着く  森田律子

京に上り松永久秀三好三人衆を討とうとする者がいないことに、

業を煮やした義秋は、全国の大名に書状を出し、

上洛の供をするように命じるのだった。

その書状が小寺政職のもとにも届くと、

政職はまんざらでもない様子を見せる。
     よしとし
小河良利は小寺の名が遠く越前にいる義秋の耳にまで届いている

と喜ぶが、実は、職隆のもとにも同様の書状が届いていた。
                                      ながやす
※ 三好三人衆=三好長慶の部下であった長逸・政康・友通の3人をいう。

 長慶の死後、三好家の後継である義継が幼年であったため、

 その後見役として、この3名と重臣・松永久秀が台頭。

 将軍・義輝を殺害して以降、政権の主導権をめぐって,

  久秀と分裂闘争を起こした際、
東大寺が炎上した。

 信長の上洛に反発して抵抗するも、あえなく敗退する。


うっかりとタブーに触れた昼の月  合田瑠美子

政職は、義秋からの書状が職隆にも届いていたことを知り、

職隆を警戒するようになっていった。

「将軍までもが殺される下克上の世に、何があってもおかしくない」

と政職は考えたのだ。

まして黒田家の力は先代の重隆より領民に慕われており、

有事にはすぐに兵を集めることができる。

職隆のためなら命を惜しまないという兵がたくさんおり、

政職はそれを恐れたのだ。

乱世のしるし火星がよく光る  河村啓子



長年、光の読み方は "てる" とされてきたが、最近(平成25年10月)

"みつ" だったことが圓應寺(福岡)に残された過去帳の略伝から分っている。

「櫛橋 光」

この頃、官兵衛はと結婚する。

官兵衛がいつ結婚したかは「黒田家譜」に明記されていない。

永禄11年(1568)12月3日子息の松寿が誕生した記事が突然みえる。

そして、これより以前に播磨国の志方城主・櫛橋伊定の息女・幸圓

娶ったと記されている。

このとき官兵衛23歳、幸圓は16歳であったという。

この記述を信頼するならば、二人のの結婚はもっとも早い場合、

永禄11年初頭頃ということになる。

幸圓は才色兼備のすばらしい女性で、

体格は官兵衛よりも大きかったといわれている。
                                           
また名前は幸圓で知られているが、本名は「光」であると指摘されている。

しあわせを数える為の十の指  山口亜都子

光の実家・櫛橋氏ついて触れてみる。

志方城は、現在の加古川市志方町に所在する。

櫛橋氏はもと相模国大住郡櫛橋郷を本拠としていたが、

鎌倉時代に播磨国に移ってきたといわれている。

南北朝期に至ると播磨では赤松氏が勃興し、やがて守護に任命された。

櫛橋氏は赤松氏配下の奉行人として、草創期から仕えることになる。

しかし、戦国時代に至って赤松氏が衰退すると、

棚橋氏も自立化の道をたどった。

そして、有力な領主として、志方城を中心に威勢を誇っていたのである。

ちぎれ雲ゆずれぬことがあったのね  竹内ゆみこ



このように官兵衛も父・職隆と同様に、

地元の有力者の娘を娶ることになったのである。

ところで当時としては珍しいことに、

官兵衛は側室を迎えなかったといわれている。

二人の愛情は、仲睦まじいものがあった。

光に試練が訪れたのは、夫・官兵衛が

天正6年(1578)荒木村重の居城・有岡城に幽閉されたことである。

このとき黒田一族は、「御本丸」と称し、

職隆・休夢の支援を得て一致団結した。

光が推載されたことから、強く信頼されたことがわかる。

いつもより念入りにする薄化粧  青砥たかこ



「信長ー天下布武」
                                      もりなり
永禄9年(1566)竹中半兵衛安藤守就が稲葉山城を占拠後、

加治田城主・佐藤忠能加治田衆を味方にして中濃の諸城を手に入れ、

さらに西美濃三人衆を味方につけた信長は、

ついに翌永禄0年、斎藤龍興伊勢長島に敗走させ、

織田信長は33歳で尾張・美濃の2ヶ国を領する大名になった。

※ 西美濃三人衆=戦国大名の斎藤氏の重臣である稲葉良通氏家直元

 安藤守就のこと。不破光治を加えて四人衆とすることもある。

 義龍の代に斎藤氏を離反して信長に仕えた。

大刀で地獄極楽裏返す  筒井祥文


この美濃平定の後、信長「天下布武」の印を使い始めた。

天下布武とは日本全国を武力で統一するという意志を示したものである。

この意志を表わしたものが美濃(井ノ口)を、

「岐阜」という名称に改めた点である。

「岐」は天下を治めた周の文王が、

最初に立ち上がった「岐山」に倣ったもので、岐阜の「岐」を使うことは、

信長も文王のように、「日本を統一する」という意志を示したものなのだ。 

この美濃平定の直後、
       おおぎまち                                   りんじ
信長は正親町天皇から朝廷への奉仕を要請する綸旨を受けた。

翌永禄11年には足利将軍13代・義輝の弟・義昭を奉じて上洛戦を敢行し、

義昭を15代将軍の座につけると、四方へ攻略の手を伸ばす。

ドミノ倒しのように諸勢力が信長になびき、

雪だるま状に織田支配圏が広がりつつあった。

ぎんなんの散る日は寒い日のしるし  墨作二郎

一方、職隆はいよいよ新しい時代が動き出すと予感し、

「新たな流れについていくには新たな人材に交代するのが一番良い」

と考え、信長よりもひと回り若いながらも、

同じ時代の人間である官兵衛に将来を託し、家督を譲ったのである。

官兵衛22歳であった。

土鈴にはカシューナッツと陰陽師  井上一筒

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