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川柳的逍遥 人の世の一家言
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薬指の力を抜いて並びなさい  酒井かがり



「真田信繁の正・側室と子ども」

真田信繁には、5人の正・「側室が5人」がおり、分かっているだけでも、

「4男8女」をもうけている。

信繁が最初に娶った妻は家臣の堀田興重の妹・とも(ドラマでは梅)である。
    おきく
長女阿菊(すえとも)を産んでいる。

ともは九度山には行かず、娘・すえは興重の養女となって、

信濃小県郡長窪の問屋・石合道定に嫁いだ。

長女だったこともあり、信繁はすえを気遣い、道定からの書状に、

「道定のこと心にかなわぬ者でも、御見捨てなきようにお願い致します」

と返答をしている。

駅の数かぞえて右手右手首  蟹口和枝
                        うねめ
真田一代に命を託した高梨内記は娘・采女(ドラマではきり)が信繁と結婚し、

真田、高梨の血の絆が一層深まることを強く望んでいた。

家臣と主君の家同士での結婚は、当時から見れば主従関係をより強め、

政略結婚とまでは言わないまでも、非常に重要な意味を持っていた。

しかし身分の違いから、正室での結婚は難しかったため、

采女は真田家の世話役である奉公人として、信繁の世話を甲斐甲斐しく、

やりこなし頑張った成果もあって、2番目の側室となる。

そして次女を産んでいる。


「采女」とは、宮中に仕えた女子を指す役職(職業)名であり、

高梨の娘が采女の経験があった為、こう呼ばれるようになったとされる。

この市は母ともに、信繁に従い九度山に行くも病死している。

さざなみへの憧れ沼だった頃  山本早苗


  隆清院

豊臣の人質として上洛したのちに信繁が「正室」に迎えたのは、

秀吉の家臣・大谷吉継の養女・安岐姫(竹林院)である。

信繁との間には、大坂の陣で自刃する長男大助(幸昌)次男守信
    おうめ
三女阿梅四女あぐり六女菖蒲七女かねを産んでいる。

次男・守信については、大坂夏の陣の時は、齢4歳。

信繁は道明寺の戦いで伊達政宗と干戈を交え、

勇猛な家老の嫡男・片倉重綱の戦いぶりに感銘を受け、

三女の阿梅、六女の菖蒲ともども、生命を託した。

重綱は後藤基次を討ち取り「鬼の小十郎」と称された勇将である。

阿梅らには真田十勇士のモデルの一人・穴山小助の娘も同行したという。

子面が届いた雨が降ってきた  くんじろう

正宗は秀吉には二度、家康にも反抗した反骨の武将。

頼まれれば拒まぬと信繁が読んでのこと。

正宗も勇士の子を蔑ろにはせず、重綱に匿わせた。

幕府がこれを掴み詰問すると、重綱は真田信尹の子に政信がいるという

偽系図をつくって提出し、守信には、片倉姓を名乗らせて命を守った。

三女・阿梅は片倉に託された12歳で、

白石に赴いた元和6年(1620)に
重綱の側室となり、その6年後、

正室の針生氏の死去にともない、
後室として正室の座についている。

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慶長5年(1600年)、竹林院は「関ヶ原の戦い」で父と夫が西軍につき、

彼女は義父・昌幸の正室・と共に実父の吉継に保護されていた。

戦後は信繁に随行して九度山に幽閉される。

九度山での生活は厳しかったらしく、

伝承では彼女自ら上田地方の紬技術を応用した真田紐を考案したとされ、

家臣たちに行商させて、生計を支えていた。

プロットはサバの味噌煮ということで 山口ろっぱ

四女あぐりは大坂の役後、五女の夫である滝川一積の養女になる。
                          がもうよしさと
その後、会津国会津藩重臣で三春城主・蒲生郷喜に嫁ぐ。

養父である滝川一積は、幕府から信繁の子どもを隠匿したことを、

責められ除封される。

その後、郷喜は寛永12年(1635)に亡くなったとされる。

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  隆清院

秀吉による苛烈をきわめた「秀次一族粛清事件」で、

全員斬首されたはずの秀次の子ども二人が生き残っている。

そのうちの一人が、信繁の3人目の側室になる豊臣秀次の次女・隆清院

隆清院と信繁は九度山でめぐり合い、間に二人の子供が生まれている。

一人は出羽亀田藩士になりなる信繁三男三好幸信

もう一人は、信繁五女お田

慶長19(1614)年10月、信繁が嫡男・大助らと大坂城に入城した際、

隆清院も娘のお田と共に大坂城に随行している。

大阪冬の陣が終わってもしばらくの間二人は、大坂城で過ごしたが、

翌年の3月、大坂城を出、秀吉の実姉・瑞龍院が住む京都嵯峨野で

隆清院にとっては義母にあたる秀次の母親・とも(日秀)と暮らす。

この時、隆清院は2人目の子供である幸信を身籠もっていた。

4月大坂夏の陣がはじまり、5月信繁討ち死。 同月、豊臣氏は滅亡。

切ないを方程式で解いてみる  佐藤美はる

徳川方による豊臣の残党狩りがはじまると、隆清院とお田の2人は

瑞龍寺をでて、
転々と居場所を変え、二手に別れて逃亡を続けたが、

お田は捕らえられる。


このことを知った信繁の兄・真田信之が必死の助命嘆願をする。

その甲斐あって、
お田は江戸城大奥に仕えることとなる。

お田はまだ15,6歳の少女だったが、信繁の娘として気高く、

気品を備えていたという。

一方、隆清院は梅小路氏の姉のもとで匿われていたが、

追跡の手が厳しく、米屋次郎兵衛という町屋に住まいを変え、

そこで左馬之助(幸信)を産み育てたと伝わる。

世渡りのうまい女の帯の位置  上田 仁


  真田幸昌

「信繁長男・真田幸昌大助」
母・竹林院。
九度山で生まれる。慶長19年父とともに大坂城に入り、
同年大坂の陣では真田丸に攻め寄せた幕府軍に突撃をかけたと伝わる。
翌年夏の陣が起こると5月7日天王寺・岡山の戦いで父の前陣を務めた。
その後、父から秀頼の側を固めよと命じられ城内に戻り、
翌日、淀殿母子
に殉死。

「信繁二男・真田大八」(片倉守信)
母・竹林院。
子どものときに京で石投げ合戦の石に当たって亡くなったと伝わる。だが
実はこれはカムフラージュで彼は生きており、大坂の陣後に豊臣方関係
者のへの追求を逃れて仙台に赴き姉の阿梅の保護を受け、片倉守信と
名乗って伊達家から360石を賜ったという。

この指止まれ西方浄土ゆきですよ  田口和代

「信繁三男・三好幸
母・隆清院。
父・信繁戦死の二ヵ月後に京で生まれた。大八守信の京での死亡伝承と
いい、信繁の妻子は大坂の陣が始まると京に非難していたのだろう。のち
三好の名字を名乗って左次郎と称し、つづいて同腹のお田の夫・出羽亀田
藩主・岩城宣隆(のぶたか)の家臣となって380石を与えられ三好左馬之助
幸信と称した。

「信繁六女・菖蒲」 仙台藩士・片倉定広の正室に。母・竹林院。

「信繁七女・かね」 犬山城主・石川貞清の正室に。母・竹林院。

「信繁八女・名は不詳」母は九度山の村育ちで信繁と結ばれたとされる。

石庭にぽつんと蟻の古戦場  墨作二郎

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