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川柳的逍遥 人の世の一家言
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枝分かれしたとき人間になった  井上一筒



「温厚篤実ー上杉景勝」

弘治元年(1555)、越後坂戸城主・長尾政景の次男として生まれる。

母は上杉輝虎(謙信)の実姉・仙桃院

輝虎の甥に当たる。


長兄が早世したので世子となるが、永禄7年(1564)父の死により、

9歳で春日山城に入って叔父・謙信の養子となる。

謙信没後、天正6年(1578)「御館の乱」で、

もう一人の謙信の養子・上杉景虎を滅ぼし、上杉家の家督を相続。

謙信の急死については、父・政景による暗殺説がまことしやかに流布し、

また、景勝による暗殺説も存在する。

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景勝の人となりとして次のようなことが伝わる。

「家臣達も景勝の声を丸一日聞かないようなことがあった」

景勝が秀吉に招かれて上洛するとき、数百の供を連れ行軍。

家臣には景勝の意思が行き届き、道中は一切無駄口を叩かず

粛然として、人馬の歩む音がするだけだったという。

「右腕の直江兼続が、いつも景勝の意思を代弁していた」

「家臣の前で笑顔を見せたのはただ一度だけ」

「女嫌いであった」

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川中島合戦の図

上杉氏が真田氏と遭遇するのは、川中島4郡をめぐっての抗争からだが、

天正10年(1582)武田氏が滅亡すると、織田軍に攻められ国内でも
しばたしげいえ
新発田重家の反乱にあったが、「本能寺の変」によって危機を脱した。

このころから真田氏とは直接的な関係が生じる。

織田氏旧領の国盗り合戦ともいう、いわゆる「天正壬午の乱」以後、

真田昌幸が巧みな動きを見せる。

はじめ上杉氏、次いで北条氏、さらに徳川氏に従属して、

生き残りを策したのである。

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翌11年4月、昌幸は徳川家康の支持を背景に千曲川沿いの尼ヶ淵に、

「上田城」の築城をはじめた。

これが景勝を刺激した。

景勝は上杉方への攻勢だとみてとり、

川中島4郡の国衆の軍勢を集結させ
築城を妨害しようとしている。

しかし、徳川方が羽柴秀吉との対抗上、北条氏政と結ぶと昌幸に

西上野・沼田領を割譲するように迫った。

昌幸は「これは家康殿より与えられたものではなく、

我らが手柄によって取った沼田である」と主命を突っぱね家康と断交した。

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かといって単独では徳川・北条同盟に対決できない。

昌幸は一転して、それまで敵対していた景勝を頼ることにした。

景勝にしてみれば、信州進出ではたびたび苦杯を舐めさせられた

昌幸は
何とも小癪で目障りな存在だったが、服属してくれれば、逆に、

上杉方の勢力が小県まで伸び、徳川方に突きつけた匕首となると考えた。

このとき、温厚篤実な景勝は、

本領安堵のほか、佐久郡や甲州の一部を新知として与え、


さらに徳川や北条が攻めてきたら、

上田だけでなく沼田・吾妻まで援軍を送ると約束している。

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  上杉景勝

天正13年8月、家康が大軍を上田に派遣する。

第一次上田合戦である。

昌幸は景勝に援軍を要請するとともに、信繁を人質として景勝に送った。

景勝は5千人近い援軍を上田周辺に派遣して約束を守った。

第一次上田合戦は景勝の支援があってはじめて勝利したものだった。

景勝は人質となった信繁主従を厚遇した。

第一次上田合戦のとき、北条方が矢沢頼綱の守る沼田城を攻めたとき、

景勝は信繁の軍代とされる矢沢頼幸に父・頼綱の加勢に向かわせている。

ここに景勝の真田氏への温情が感じられる。

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また一方では、織田政権において台頭した羽柴秀吉と好を通じ、

「賤ヶ岳の戦い」(天正11年)では、柴田方・佐々成政と戦い、

「小牧・長久手の戦い」(天正12年)「富山の役」(天正13年)でも、

秀吉に味方している。

天正14年には、招聘を受け上洛して秀吉と会見し、

より親密に命脈を保ち、
秀吉の後ろ盾と協力を得た景勝は、

天正15年になると、長年目の上の瘤であった新発田重家を討ち、

再び、「越後統一」を果たす。

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  上杉景勝        徳川家康

天正18年、前田利家真田昌幸らとともに小田原征伐に出兵し、

上野・武蔵の北条方諸城を攻略。

慶長2年(1597)6月、豊臣家5大老の一人小早川隆景が家督を

小早川秀秋に譲り隠居したため、五大老に景勝が任命される。

秀吉が死去すると5大老の1人・家康は政権をわがもののように扱い、

豊臣派の大名の振るい落としを図りだす。

この風潮の中、石田光成と好を通じていた景勝は、家康と敵対する。

慶長5年(1600)、景勝が会津で城の補修や新しい城の建設に乗り出すと、

家康は「謀反の疑いあり、上洛してその理由を説明せよ」

と景勝に迫った。 
が景勝はこれを拒否。

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これに激怒した家康は、上杉家討伐の軍を起こして会津をめざした。

しかし、石田三成が反家康派の大名と旗揚げした事を知り、

直ちに進軍を中止して、三成らとの戦いのため軍を引いた。

引いて行く家康軍への追撃を主張する武将に対して景勝は、

「今回の事は家康が仕掛けて来た事であり、

  家康が引いた以上は、こちらも引き返すのが道理である。

  それを破れば先代の教えを否定する事になる」

と主張し、追撃を許さなかったと言われている。

景勝のこの言葉に「義に厚い上杉家の気質」と今も語り継がれている。

元和9年(1623)3月20日 景勝、米沢城で死去。 享年69。

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