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川柳的逍遥 人の世の一家言
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戦前のキツネ戦後のきつね汁  井上一筒



  最後の酒宴

「絵本太閤記」で描かれた鳥取城落城。

城兵の命と引き換えに吉川経家の切腹が決まり、

秀吉から贈られた酒肴で別れの宴を催す。

「鳥取城の戦い」

鳥取城の開戦の前年の秋、鳥取城の周辺には

官兵衛に派遣された若狭国の商人などが頻繁に姿をみせ、

収穫したばかりの米や穀物を時価の数倍の高値で買い取っていた。

このとき金に目が眩み、

城内の備蓄まで売ってしまう不届き者がいたという。

それこそが官兵衛のねらいでもあった。

さらに官兵衛は、鳥取城を包囲する直前に念をいれて、

付近の農村を襲って、ことごとく焼き払い、

自宅を失った農民たちが城内に逃げ込むように誘導した。

削除キー押しても眼裏に残る  上嶋幸雀



   鳥取城城門

官兵衛は秀吉陣営に復帰すると、

天正9年(1581)6月には因幡・鳥取城攻めに加わった。

鳥取城城主は吉川経家で、約2千が立て籠もった。

この時、官兵衛の脳裏には、

死の恐怖と共にあった幽閉から生還した思い、

すなわち命の尊さが甦った。

「敵味方ともに、命を無駄にしない戦い方はないものであろうか」

およそ戦国武将らしくない官兵衛の胸の裡は理解し難い。

だが官兵衛は、「力と力衝突するという合戦の常識を破る」

ことが必要だと信じたのである。

本当のわたしに出会うまで歩く  阪本こみち

武器や将兵の数にたのむのではなく、敵を弱らせて落城させる。

結果的に双方の損害は少なく戦を終えられ、

合理的だと秀吉に進言した。

「因幡六郡の米を、古来、新米を問わず買い占めてくだされ」

兵糧攻めだ。

周辺の米を2倍3倍の値で買うことで、

「容易に買占めは成功する」と付け加えた。

米は、鳥取城には入らなくなった。

そればかりか、周辺の農民なども城に逃げ込み、

城内の人数は膨れ上がった。

第二章白いうぶ毛の乱反射  山口ろっぱ



   鳥取城古写真 (鳥取城フォーラム2013 シンポジウム)

『因幡国鳥取郡の一郡の男女は、

   悉く鳥取城中へ逃げ入って立て籠もった。

   下々の百姓以下は、長期戦の心構えがなかったので、

   即時に餓死してしまった。

   はじめは5日に一度か3日に一度鐘を衝くと、

   それを合図に雑兵が城柵まで出てきて、

   木や草の葉を取り、中には稲の根っこを上々の食糧とした』
                                                                      
時間の経過とともに悲惨さは,さらに増した。

餓死するものは止まるところを知らず、

痩せ衰えた男女は、柵際でもだえ苦しんだという。
                                                                         ([鳥取城地獄絵図」-【石見吉川家文書】)
水中花火に泡だったよと告げる  蟹口和枝


吉川経家
             あずさゆみ         すみか
”武士の 取り伝えたる梓弓  かえるやもとの 栖なるら”                                                                 (吉川経家ー辞世の句
まさに地獄絵図さながらに、

飢えの苦しみは三木城と同じ様相であった。

とにかく飢えを凌ぐために、

鳥取城内の人々は、口に入るものはなんでも食した。

『(秀吉軍)が鉄砲で城内の者を打ち倒すと、

   虫の息になった者に人が集まり、

   刃物を手にして関節を切り離し、肉を切り取った。

   身のなかでも、とりわけ頭は味がよろしいとみえて、

   首はあっちこっちで奪いとられていた』

もし早期に官兵衛の降伏勧告を容れていたならば、

そのような状況には陥らなかっただろう。

このような事態をうけ10月、

安国寺 恵瓊が秀吉の陣営を訪れ、鳥取城の開城を協議した。

そしてその月の25日、吉川経家は城兵の助命を条件に切腹した。

南無阿弥陀仏でタマネギ切る法師  中村幸彦

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