百年に一度の咳を二つする 井上一筒
聚 楽 第
天正15年
(1587)10月1日、秀吉は九州平定と
「聚楽第」の竣工を祝し、北野天満宮境内で
「大茶会」催した。
茶席には、秘蔵の名物茶器・道具が展示され、また、
秀吉自ら亭主を勤めるなどして、多数の参会者で大賑いだったという。
茶会は九州平定を終えた7月早々に企画され、
その月の28日に京都・五条などに
「触書」を出された。
7月の末より、諸大名・公家や京都・大坂・堺の茶人などに
10月上旬に茶会を開く旨の朱印状を出した。
これは豪華絢爛な聚楽第の披露に併せ、
秀吉が京都の朝廷や民衆に威光を見せつける目的があった。
ことさらにはしゃぐイソギンチャクになって
山口ろっぱ
茶席の井戸「三斎井戸」
触書の内容は次の通り。
① 北野の森において10月1日より10日間、大規模な茶会を開き、
秀吉が自らの名茶道具を数寄執心の者に公開すること。
② 茶湯執心の者は若党、町人、百姓を問わず、釜、釣瓶、呑物1つ、
茶道具が無い物は、替わりになる物でもいいので持参して参加すること。
③ 座敷は北野の森の松原に畳2畳分を設置し、
服装・履物・席次などは一切問わないものとする。
④ 日本は言うまでもなく、数寄心がけのある者は唐国からでも
参加すること。尚、遠国からの者に配慮して10日まで開催する。
こうした配慮にも関わらず参加しない者は、今後茶湯を禁止する。
⑤ 茶湯の心得がある者に対しては場所・出自を問わずに、
秀吉が目の前で茶を立てること。
巻貝は空を飛べたのだきっと くんじろう
北野大茶会の図
茶会初日は、北野天満宮の拝殿を3つに区切り、
その中央に黄金の茶室を持ち込んでその中に、
秀吉自慢の名物・
「似たり茄子」などが陳列された。
また、
麩焼き煎餅、真盛豆等の茶菓子が出されたとされている。
御触れの効果からか当日は京都だけではなく、大坂・堺・奈良からも、
参加者があり総勢1,000人にも達したという。
お互いをちりめんじゃこと笑い合う 松山和代
会場では野点が行われた。
4つの茶席には、秀吉と茶人3名
(千利休・津田宗及・今井宗久)
を茶頭として迎え、来会者には身分を問わず公平に籤引きによって、
各席3-5人ずつ招き入れて名器を用いて茶を供した。
秀吉は午前中は茶頭として茶を振舞い、
午後には会場内各所を満足げに視察して1日を過ごした。
0を書く真ん中が頂点 田中博造
ところが、10日間開催の予定だった茶会が、翌2日目が中止され、
その後も再開されぬまま終了となった。
理由は初日の夕方に発生した肥後一揆が発生したという知らせが入り、
秀吉が憤慨し気分を悪くしたというのが有力な説だが、
「単なる関白の気まぐれである」とか
「秀吉が数百人も茶を点てるのに疲れてしまった」
ともいう説もある。
一日を微塵切りして前を向く 岩根彰子
佐々成政
(肥後国人一揆)
九州征伐の功績で、秀吉は
佐々成政に肥後一国を与えた。
秀吉は、
「性急な改革を慎むように」と指示したが、
病を抱える成政だったが、秀吉の意見を無視し検地を強行した。
これに反発する肥後国人が一斉蜂起したのである。
成政はこれを自力で鎮めることができなかった。
このため失政の責めを受け、
安国寺恵瓊らの助命嘆願も効果なく、
摂津国尼崎法園寺にて、切腹を命じらられたのである。
大坂城の秀吉に釈明に向かう途中であった。
切腹の日、成政は秀吉憎しの一心で、大阪城の方角を睨みつけたまま、
腹を切り、目一杯歯を食いしばったため、
歯がポロポロと抜け落ちたという逸話がある。
この肥後国人一揆の火種は、
官兵衛・長政の城井谷城に飛火する。
敵の敵は味方じゃないと傷が言う 竹内いそこ[3回]
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