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川柳的逍遥 人の世の一家言
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涙こぼれます天地無用に願います  美馬りゅうこ
  

        晩年の秀吉像

「官兵衛を恐れた秀吉」

「お前は弟の小一郎(秀長)と同じように心安く思っている」

これは天正5年7月に官兵衛に宛てた秀吉の手紙である。

この時点では、秀吉と官兵衛の仲は順風満帆だった。

しかし5年後には、官兵衛に対する気持ちが一転する。

天正10年(1582)「本能寺で信長死す」の報が入ると、

陣中にあった秀吉は激しく動揺し、取り乱した。

あまりに急な事態に、どうしていいか分からない秀吉に対し、

官兵衛は「御運が開かれる機会が参りましたな」と耳打ちをした。 

この一言で秀吉は、自分が何をすべきかに気付き、

落ち着きを取り戻して「中国大返し」を敢行した。

瘡蓋がはがれるまでのノーサイド  寺川弘一

しかし、これを機に秀吉は、官兵衛の知謀を恐れ、

警戒するようになる。

官兵衛は秀吉のもとで、さまざまな功績を立てたが、

最大で12万石しか与えられなかった。

周囲の物が秀吉にとりなすと、

秀吉は、

「ちんば(官兵衛)に高禄をやれば天下を取りよるわい」

と苦々しく言ったという。

これが顕著な秀吉の官兵衛観である。

疑問符が刺さったままの喉仏  山野寿之  
              

  秀吉の腰掛椅子

ここから秀吉の天下人への道がひろがっていったとされる幸運な石。

あるとき官兵衛は、秀吉のお伽衆のひとり、山名禅高から秀吉が、

「自分の死後、天下を狙う者は官兵衛である」

と言ったことを聞かされ。(故郷物語)

さらに有名なところでは、秀吉が、

「わし代わって、次に天下を治めるのは誰であろうか」

と、家臣に尋ねたことがあった。

家臣たちは即座に家康前田利家の名を挙げた。

しかし秀吉は、

「官兵衛がその気になれば、わしが生きている間にも天下を取るだろう」

と官兵衛の名を挙げたという。

骨切りの音もかすかに東入る  山本早苗

さらに、家臣たちが官兵衛が小身の大名に過ぎないと述べたところ、

秀吉は、

「官兵衛に百万石を与えたらすぐにでも天下を奪ってしまうだろう」

と答えている。(名将言行録)

いかに秀吉が官兵衛を警戒していたかが伺える。

名将言行録を続けて開くと、

「秀吉が言うには、常に恐ろしいのは家康と官兵衛である。

   しかし、家康は温和な人物である。

   黒田の瘡天窓は何とも心を許しがたい男である」

と記されている。

直視するには痛いひかりである妬心  たむらあきこ  
      
このような才覚を持つ官兵衛に対し、小早川隆景

「貴殿はあまりに頭が良く、物事を即断即決してしまうから、

   後悔することも多い。

   私は貴殿ほど切れ者ではないから、

   十分に時間をかけたうえで判断するので後悔することが少ない」

と指摘したことがある。

これには官兵衛も感心したようで、2人は親交を深めた。

関ヶ原の3年前に隆景が死んだ時は、

「これで日本に賢人はいなくなった」

と官兵衛は嘆いたという。 

黒い目が目立ち過ぎてる白い魚  ふじのひろし


   蒲生氏郷

官兵衛と同じく秀吉に才覚を恐れられたと伝わるのが、

蒲生氏郷である。

氏郷は信長も、その聡明さを認めた人物で、

秀吉は彼に会津92万石を与えたが、

「氏郷を上方に置いておくわけにはかぬ」

と側近に漏らしたという。
 
「三国志」の英雄、曹操楊修という参謀が、

自分が撤退命令を下す前に撤退の支度をするなど、

ことごとく先を読んだ言動をしたので、

ついに処刑してしまったとされる。

古今、権力者が自分より優れた人物を警戒するのは、

道理かもしれない。

理由など誰かが後で考える  小嶋あきら

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