忍者ブログ
川柳的逍遥 人の世の一家言
[499] [497] [498] [495] [494] [488] [493] [492] [491] [490] [489]
どう畳んでも右足が入らない  森田律子

 
          城井谷j絵図 (築上町教育委員会蔵)

「官兵衛の人生で唯一、残虐な謀略」

天正15年(1587)官兵衛秀吉から「九州征伐」の功績として、

豊前六郡12万石を拝領することとなった。

大きな功績にもかかわらず、恩賞はあまりにも小さかった。

やはり秀吉は、

「自分に対して恐れを抱いており、力を与えようとはしない・・・」

官兵衛がそう感じるのも無理はなかったであろう。

ともかくも、官兵衛は九州の新天地へと辿り着いた。

そして豊後国下毛郡中津川に、中津城を築城し居とする。

疑問符が備考欄から叫んでる  山本昌乃

息子・長政もまだ未熟ながら、侍として成長著しい。

秀吉の軍師となってから15年、

家臣として務めが終わったことを感じ始めるようになった。

しかし、それを許さぬ事態が発生した。

秀吉から拝領した佐々成政の強引な押さえつけに、
      くまべちかなが
反発した隈部親永を中心とする地侍たちが決起し、

一揆を起こしたのである。

秀吉の許可を受け、鎮圧の一翼を担うこととなった官兵衛は、

他の鎮圧軍と筑前で合流する。

寝袋を出て寝袋を風に干す  井上一筒


   城井城上の門

人ひとりしか通ることが出来ない狭い門。
この狭さに官兵衛は打つ手もなく苦戦を強いられる。

ところがそこに、さらなる驚きの一報が入ってきた。

官兵衛のおひざ元、豊前でも反乱が勃発したというのだ。
                       きいだに
蜂起の中心人物は、400年来、城井谷を拠点としてきた
         しげふさ
国人の宇都宮鎮房である。

本領安堵を望む鎮房に、秀吉が伊予国移封を下したことが原因だった。

さすがの官兵衛も青くなり、すぐ豊前へと引き返す。

オクラほどの粘りが性に合っている  下谷憲子


宇都宮鎮房の兜

地元の名門の子孫である鎮房は、足軽から身を起こした秀吉に

従うことを執拗に拒んだ。

そして「城井谷城」に挙兵する。

負けじと長政も挙兵し戦おうとするが、

鎮房は奇岩に囲まれた狭い谷に鎮座する城井ノ上城へ立てこもり、

頑強に抵抗を続けた。

長政の軍勢は押し返され、長政自身も傷を負った。

官兵衛は、「弱敵と侮るな。油断が敗北を招く」

と長政を諭し、「勝つこと考えろ」 と檄をとばす。

父という大きな無言立っている  和田洋子

難攻不落の要害に官兵衛は討伐を断念し

秀吉に使者を派遣し、秀吉が仲裁役とし、偽装の講和を提案する。

それは、鎮房の娘・舞姫が長政に嫁げば、黒田家の親族となるので、

「宇都宮氏の旧領は安堵する」 

という条件であった。

しかし官兵衛は講和での事態解決をよしとしていなかった。

領国経営のためにあえて、非情な措置をとったのである。

玉葱の薄皮ほどのせめてです  新川弘子


    合元寺 (朱色の壁の下には血痕が残る)

天正16年(1588)官兵衛は、

わずかな家臣を連れ、婚儀の祝宴に中津城を訪れていた鎮房を、

長政に謀殺させたのである。
         ごうがんじ
中津城近くの合元寺に待機させられた鎮房の家臣たちも惨殺される。

その時に飛び散った血が、門前の壁を赤く染め、

以後、何回塗り替えても、

血痕が浮き出てくるという怪現象が絶えないので、

合元寺では、壁を朱色にしたといわれている。

耳の日の壁へ交響曲「ヒロシマ」  八上桐子

天下平定にあたって転封や国替えは避け難く、

従わない勢力は断固取り除く。

秀吉とともに各地を平定した官兵衛には、

どんな手段をつかってでも、

それを果たすという凄みが染みついていた。

これも先々の領国経営を考えて、叛乱の種は残さないという、

官兵衛の意思表示でもあった。

反面この事実は、官兵衛のわだかまりになっていた事が

晩年の言葉に中に残る。 (この言葉は後述、名言集へ)

研ぎ上げた刃先に映る悔いひとつ  桑原伸吉

拍手[4回]

PR


Copyright (C) 2005-2006 SAMURAI-FACTORY ALL RIGHTS RESERVED.
忍者ブログ [PR]
カウンター



1日1回、応援のクリックをお願いします♪





プロフィール
HN:
茶助
性別:
非公開