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川柳的逍遥 人の世の一家言
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隠し事はないよと足裏を見せる  竹内ゆみこ


   聚楽第図屏風 (三井記念美術館)

天正の事件簿・ 「聚楽第落書事件」

天正17年3月、何者かによって聚楽第南の鉄門に、

関白秀吉を中傷する落首が大書されるという事件が起きた。

その内容は不明だが、二年後にも京の市中で

『末世とは 別にはあらじ木下の 猿関白を見るにつけても』とか

『押し付けていえあばいわるる十楽(聚楽)の内は一楽もなし』

などと言った秀吉誹謗の落首が出回ったことがある。

激怒した秀吉は、

「警護の番士たちが気付かぬはずがない、知っていて見逃したのだろう」

と激しく警護の番士を詮議したあげく、

鼻を削ぎ、耳を削ぎ、逆さ磔に処した。

さらに、秀吉は犯人たちを徹底的に追及し、

石山本願寺に隠れていた一味を捕らえ、京都六条河原で磔にした。

五分でバレるこめかみのこんたん  酒井かがり


銀箔押一の谷形兜をかぶった長政(福岡博物館)

「官兵衛・隠居」

「聚楽第落首事件」が起きた同年の天正17年(1589)5月、

官兵衛秀吉に隠居願いを申し出た。

官兵衛44歳のとき、長政に家督を譲るというのである。

「人間五十年」といわれた時代とはいえ、

まだ官兵衛には、活躍の余地が十分にあった齢である。

その背景について、『黒田家譜』は、

「(官兵衛が)早くから引退を決めたことは、

       利欲が薄くその心の広さを示す」 とする。

しかし、これは表面的な理由で、実際には別に事情があった。

秀吉やその家臣が官兵衛の巧妙や英才を恐れ、妬むものが多かった。

そこで官兵衛はその災いを避けるため、敢えて引退の道を選んだ、

ものと考えられている。

後はただ月に戻っていく戦士  森 茂俊

現実的に考えた場合、わずか12万石の所領しか持たない官兵衛が、

天下を差配する可能性があったのだろうか。

当時、大禄を食んでいたのは、

家康・毛利輝元・島津義久らの面々である。

彼らが叛旗を翻すなら、妥当性があるものの、

官兵衛にそこまでの力があったかは疑問である。

たしかに、官兵衛の功績は特筆すべきものがあるが、

秀吉に叛旗を翻すには、規模は小さすぎるのである。

五頭身あればあさってが見える  清水すみれ

秀吉に家督譲与を願い出た官兵衛は、当初、許可されなかった。

小田原に北条がという目の上の瘤もあり、

天下統一のまだ途上である。

今後も官兵衛を頼りにしたい秀吉にとっては、当然のことだった。

そこで官兵衛は、秀吉の妻・北政所に口添えを願った。

こうしてようやく官兵衛は、長政への家督譲与を認められたのである。

しかし、秀吉は家督譲与を認めたものの、

楽隠居は許さなかった。

嬉しくて光り悲しくても光  嶋澤喜八郎       

一般的に家督譲与の契機は、当主の死、病、出家等々による。

官兵衛が引退を決意したのは、荒木村重に有岡城で幽閉された際に、

身体が不自由になったことも理由の一つだったのかもしれない。

理由は何であれ、官兵衛は領国支配の実権を長政に譲り、

自身は後見人的な立場に退いたのである。

同年、官兵衛は出家して「如水軒」と号した。

翌天正18年6月に、23歳の長政が従五位下甲斐守に叙された。

二条駅スライスポテトの厚みかな  岩田多佳子
                    すて
この天正17年には、淀君が秀吉の嫡子となる(鶴松)を産んでいる。

この出産を喜んだ秀吉から、淀君は山城国淀城を賜り、

以後「淀の方」と呼ばれるようになった。

しかし、鶴松は天正19年に死亡する。

このころから、秀吉の行動は益々常軌を逸するようになり、

そのとばっちりの先にあったのが、

「聚楽第落書事件」の八つ当たりであった。

シェアハウスの壁から歩く道標  高橋 蘭

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