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川柳的逍遥 人の世の一家言
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天と地が揺れても正座崩さない  板野美子

 

    姫山付近 (画像は大きくしてご覧ください)

「姫路城」

古来山陽道の要地である姫路は、北に中国山地、南に播磨灘を望む。

また東西の台地の裾には川が流れ、山陽道が西国へと続く、

四神相応の地とされる。

その中央に位置する「姫山」に、姫路城は築かれた。

羽柴秀吉時代の姫路城は、天正8年(1580)、

現在の大天守のある位置に三重の天守があげられていた。

黒田氏時代の姫路城も、姫山にあったと考えられている。

官兵衛の父・職隆が永禄4年(1561)に本丸、二の丸から成り、

櫓を築き塀で囲んだ城を築いたという。(姫路城史)

また城と市街の要所に、幾多の門を構えていた。

城の北側の山陽道に向かって町が形成され、

大手口も北に開かれていたと思われる。

限界集落うつくしい蟹がいる  新家完司

 

    姫路城模型

運命の出会いという言葉がある。

官兵衛と秀吉との出会いはまさにそれである。

小寺家中を織田家支持にまとめた官兵衛は、

自ら岐阜に赴いて信長の傘下に入り、

天正5年(1577)播磨に進軍してきた秀吉を迎えた。

秀吉の才覚と人柄に触れた官兵衛は、率先して播磨の先導役を務め、

また、居城の姫路城本丸を秀吉に譲り渡した。

秀吉は交渉巧みな官兵衛が「自分と似ている」ことを認め、

「こいつは使えるぞ」と喜んだ。

実際、播磨に土地鑑も人脈もない秀吉にとって、

官兵衛は貴重な存在で、二人の歯車はうまく噛みあった。

いわゆる姫路城は、官兵衛と秀吉の運命の始まりの場所である。。

カリスマと呼ばれる人の静電気  ふじのひろし

 

姫路城の珍しい十字の鬼瓦

言うまでもないが、国宝・姫路城は別名「白鷺城」と呼ばれ、

世界遺産にも指定されている。

この姫路城は築城にまつわる謎が多く、また黒田氏の居城であるが、

何より、国宝や重要文化財の建築物が多いことで知られる。

① 国宝―大小天守四棟・渡櫓四棟。

② 重要文化財―櫓十六棟・渡櫓十一棟・門十五棟・塀三十二棟。

天守閣は、連立式の大天守・西小天守・乾小天守・東子天守の

4つで構成され、大天守は33メートルの高さを誇り、

外観五層・内部七階という非情に規模の大きなものである。

もちろん現存の天守としては最大規模で、

その美しさは群を抜いている。

すっかり上から目線になった竹  一階八斗醁



   上山里下段石垣

天守閣を解体修理した際、

一回り小さい石垣が現在の大天守の石垣の中から発見された。

これが秀吉時代の遺構と考えられている。

「姫路城の歴史」

姫路城の歴史は古く元弘3年(1333)

赤松円心護良親王の命により挙兵。

京に兵をすすめる途中、姫山に築いた砦が姫路城の原形といわれる。

そして、その次男・赤松貞範が貞和2年(1346)に本格的な城を築いた。

この後、姫路城は秀吉によって補強される。

天正8年(1580)1月、三木城の別所氏を滅ぼした秀吉は、

三木城を本拠にしようと考えたというが結局、姫路城を本拠に定めた。

その理由は、姫路城は近くに瀬戸内海が広がり、

主要な街道が通っていたからである。

今後毛利氏との交戦を考慮すれば、絶好のロケーションであったからだ。

そして、秀吉は本格的に姫路城を改修し、三層の天守閣を築いた。

実質的に姫路城は、秀吉によって築城されたといえるのかもしれない。

何よりもまずあ行からリアリズム  柴田園江

 

入城口になる菱の門。

番人の詰め所と馬見所があった。

慶長5年(1600)池田輝政が姫路に入ると本格的な大改修が行われた。

工事は翌年から開始され、9年の歳月をかけて完成した。

「エピソード」

池田輝政による姫路城築城の時、

完成した天守から一人の男が身を投げて自殺したといわれている。

その男の名は、城普請にあたった大工の棟梁・桜井源兵衛。

輝政に命じられ、9年間、寝る間も惜しんで仕事に打ち込み、

やっと完成した姫路城であった。 しかし彼には、

丹精込めた天守閣が東南の方向に傾いているように思えてならなかった。

それを確認のため、妻を伴い天守に登ると、妻は、

「お城は立派ですが、惜しいことに少し傾いていますね」 と指摘する。

「女の目に分かるほどとすれば、

  自分が計った寸法が狂っていたに違いない」

源兵衛は愕然とした。

悩んだあげく源兵衛は、ノミをくわえて天守から飛び下りたといわれる。

葛藤の鎖が首に這っている  森 廣子



天守閣は現在、修復中のため全体に覆いがかけられている。

城が傾いていた理由は、「東と西の石垣が沈んだため」

と解体修理で判明している。

姫路城は江戸時代にもたびたび修理が行われてきたが、

当時の技術では、天守の重量に礎石が耐えられず沈み込んでいくのを、

食い止めることは難しかった。

加えて柱や梁などの変形も激しく、

『東に傾く姫路の城は、花のお江戸が恋しいか』 

と俗謡に歌われる有様。

改修工事はその後も、明治、大正、昭和と度々行われ、

直近の大修理から45年が経過。

現在、姫路城は天守閣が修理中で、その優雅な姿は見られない。

修理見学施設として「天空の白鷺」がオープンしていたが、

1月15日で終了、天守閣への入城も不可となっている。

和紙に世を包み優しき主を搾る  きゅういち

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