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川柳的逍遥 人の世の一家言
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別宅に馬本宅に牛を置く  井上一筒

官兵衛には三人の弟と三人の妹がいたことが知られている。

ところが彼らの事績はあまり知られていない。



「黒田兵庫助利高」

官兵衛の実弟で黒田24騎・黒田八虎の一人。

天文23年(1554)に生まれ、のちに秀吉の馬廻衆となっている。

母は官兵衛と同じ、明石氏の娘である。

実直で柔和な性格で思慮深く、物事に動じない人物像が伝えられる。

長政の後見役を務めるようになるが、常に長政を崇める姿勢で接し、

家臣たちに藩士としての手本を見せた。

そういう誠実さから、家中の者たちから慕われたという。

官兵衛に従って播磨各地で戦功を挙げ、

小牧、長久手の戦いでの泉州岸和田の陣、

四国攻めでには、独立武将として参戦。

九州攻めでは、先手を務めて長政を助けた。

官兵衛が豊前六群を与えられると、

うち1万石を分与され高森城代となっている。

その後、文禄元年(1592)の朝鮮征伐に参戦したが、

体を壊して休戦時に帰国し、文禄5年(1596)和泉国・堺で没した。

キリシタンといわれている。

わたくしの器に雑草が似会う  杉本克子



「黒田修理亮利則」

利則も黒田24騎・黒田八虎の一人。

永禄4年(1561)生まれ。

黒田職隆の三男(神吉氏の娘)官兵衛利高とは異母兄弟にあたる。

播磨平定後、利高とともに秀吉の馬廻り組となった。

賎ヶ岳の戦いで活躍し、

その後、仕えた羽柴秀長に従って九州攻めに参加。

官兵衛の豊前入国後は黒田家に戻って2千石を領した。

文禄の役では、長政に従って渡朝。

休戦中に頭を丸めて「養心」と号した。

慶長の役では、旗本備として42人を従えて再び渡海し、
         しょくさん
忠清道の稷山で功績を挙げた。
                                          とみく
関が原の戦いでは、官兵衛に従って豊後国富来城攻めに参加。

その後、兵とともに中津城を守った。
                                むなかた
筑前入国後は1万2千石を領して宗像郡津屋崎城代となる。

黒田家の男兄弟では最も長命であった。 没年慶長17年(1612)

もう一度生きても多分この程度  徳島一郎



「黒田図書助直之」

直之も黒田24騎・黒田八虎の一人であった。

永禄7年(1564)生れ、黒田職隆の4男(母は母里氏の娘)

兄二人と同じく秀吉の馬廻り組となり、その後、秀長に仕えた。

豊前入国後は兄とともに黒田家に戻り4千5百余石を領した。

中津城下では官兵衛にならって洗礼を受け洗礼名を「ミゲル」と名乗った。

小田原攻めを敢行した官兵衛に同行し、

北條家の家臣・由良新六郎の娘を娶る。

その妻も洗礼を受け、洗礼名を「マリア」と名乗った。

朝鮮の役に参加した際は、長政に従い旗本備として120名を統率。

稷山の戦いで功名を挙げた。

また梁山城では、

官兵衛が1千5百の兵で4千の明軍を撃退した戦いにも参加した。

関が原の戦いでは官兵衛の指揮の下、

富来城攻めで先陣を務めたほか、柳川城攻めでも活躍。

筑前入国後は秋月で1万2千石を領した。

キリスト教への深い信仰心から2千人の信者を保護したため、

秋月はキリシタン王国のようであったと伝えられている。

秋月には現在も「天主堂跡とキリシタン橋」が残っている。

慶長14年(1609)没。

進化論いつかは人になれそうで  竹内ゆみこ

「官兵衛の妹たち」

官兵衛の長妹と思しき女性は、母は官兵衛と同じ明石氏であり、

三木清閑のもとに嫁いだとされる。

三木氏はおそらく英賀城主・三木氏の一族で、

黒田氏が三木氏との同盟関係を築こうとした意図に基づくもので、

いわば、政略結婚の一環であったと推測されている。

あきらめのよい女が好きといわれても  森中惠美子

次妹の母も明石氏であった。

彼女が嫁いだのは、黒田家の家臣・尾上安右衛門という人物で、

播磨の土豪クラスで有力者であったらしい。

三番目の妹の母は、母里氏で三弟の直之と同母ということになる。

彼女が最初に嫁いだのは、一柳直末であった。

直末は秀吉の有力な家臣であった。

次いで嫁いだのは、伊藤是庵であったといわれる。

が詳しいことは分っていない。

妹は胸の名札を裏返す  河村啓子



キリシタン橋

秋月に天主堂跡とキリシタン橋が残っているとはいうものの、

平べったい一枚の岩があり、 横に「キリシタン橋」という説明板があるから、

辛うじてここが跡地と分るものである。

この橋を行くと、天主堂があったとされる広い敷地(キリシタン畑)に出てくる。

救いも悲劇もあった橋のようである。

ともかく6人の兄弟姉妹がいたことは確かなのだが、

官兵衛の知名度が突出し過ぎていたためか、

彼らの生涯はあまり研究されていない。

とりわけ妹たちのことは、分らないことばかりである。

その傷を分っているのは私だけ  渡邊真由美

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