ピカソを越えるにはピカソしかいない 笹倉良一
小寺職隆は官兵衛に家督を譲るまで御着城主小寺政職に仕え、
筆頭家老として黒田家隆盛の礎を築く。
父・重隆が目薬を売って財をなしたため、家柄や血筋にこだわる
重臣たちからは「目薬屋」と囁かれるが、実直に務めを果たして、
主君の信頼を得る。
「官兵衛の父・職隆」
黒田職隆はのちに、父・
重隆とともに姫路にやってきた。
しかし、周辺には中小の領主が群雄割拠しており、
なかなか争いごとが絶えなかったという。
職隆は思慮が深く武勇もあったので、
じきに彼らの領主は、職隆を主君として仰ぐようになった。
その後、職隆は御着城主・
小寺政職の配下に属した。
各地の戦いに出陣し、多くの軍功を挙げたと伝わる。
政職は職隆の軍功を称え、厚く遇したという。
ドブ板を鼬になって越えて行く 井上一筒
政職は
明石正風の娘を自身の幼女に迎え、職隆のもとに嫁がせた。
明石氏は現在の明石市に勢力基盤を置いた有力な領主である。
そして、二人の間に誕生したのが、
官兵衛である。
職隆の家ははじめ貧しかったが、だんだんと富むようになってきた。
職隆は天性慈愛が深く、人を恵み、飢えて貧しい者を救おうとした。
そして大きな長屋を二軒建てると、飢えた人をたくさん集め、
道で非人に出会うと
「私のところに来なさい。助けましょう」
と言ったので、多くの飢えた人が集まった。
職隆は、人々に食事や衣服を与え養ったのである。
これは、
「黒田家譜」にある職隆の人となりを示す一文である。
生きていくため触角を手入れする 高島啓子
後世に編まれた
「黒田家譜」の記述によるもので、
丸々信じるわけにはいかないが、少なくとも優しい人柄であったようだ。
これだけでなく、職隆の評価は、
「職隆の人となりは温和にして慈愛が深く、
正直にして義を守ること剛毅である。
人品は他人に勝り、善行も多い」
とまで記されている。
座ってるただそれだけでいぶし銀 和田洋子
※ ちなみに「黒田家譜」では、職隆は政職に仕えたとあるが、
のりもと
実際はその父の則職の代から仕官したもんとと考えられる。
その活動が天文年間の「鶴林寺文書」に職隆の書状があり、
則職の意向を伝えたことが認められる。
職隆が作成した算用状では、黒田姓を用いており、
永禄元年(1558)の時点において職隆は、未だ自立的な様相を残していた。
したがって、職隆が小寺姓を用いるのは、
則職が亡くなって政職が家督を継いで以降のことといえる。
算用状=年貢の収支決算書
オクラほどの粘りが性に合っている 下谷憲子
政職が小寺家の当主となった時点で、
職隆は、小寺氏の完全な配下に収まった。
やがて政職から
「職」の字を与えられるまでになり、
職隆の代に、黒田氏は小寺氏の重臣の地位を築くのである。
また職隆は、小寺姓をも与えられるほどであるから、
有能であったとことは確かである。
そお点において
「黒田家譜」が職隆を賞賛するのは、
多少表現が大袈裟であることを除けば、信用してよいだろう。
また奉行人としては、
長浜職秀とともに連署奉書を発給するなど、
小寺氏家中の中心にあった。
一方、職隆の弟・
休夢も、当初は政職配下にあった。
つまり、小寺氏家中の中核は、
黒田氏によって構成されていたことは明らかである。
削っても削っても大黒柱 森 廣子[3回]
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