怪しさを取り出す月の光から 立蔵信子
姥が懐
うばがふところ
黒田城跡の麓の「姥が懐」に官兵衛の生誕地を示す碑。
「黒田氏のの祖の謎」
黒田官兵衛、戦国時代末期に登場したこの稀代の軍師は、
羽柴秀吉の帷幕にあって、ついには秀吉に天下を取らせた男として、
後世に名を残した。
ところが官兵衛以前の黒田家のことは、ほとんど知られていないのが実情だ。
司馬遼太郎も著書
「播磨灘物語」で、
「かれの祖父や曾祖父のことといっても、
遣わされたわずかな文献や現地で想像できるだけでよくわからない」
と記している。
その先は曲がっています水平線 河村啓子
目薬の木 広峰神社御師屋敷跡
【広峰神社】には諸国を歩き、神社のお札などを売る御師たちの屋敷が今も残る。
官兵衛の祖父・重隆は、この札に黒田家家伝の目薬を合せて売ってもらった説もある。
【目薬の木】ー日本の山地に自生するカエデ科の落葉高木で、
秋には葉が鮮やかに紅葉する。
家伝の目薬は砕いた樹皮を赤い絹の袋で包み、
さらに大蛤の貝殻の容器に入れたとされ、それを煎じた汁で目を洗うことで、
目の痒みや酷い目ヤニに抜群の効果を発揮したという。
黒田家は関が原の戦い以後、筑前福岡で52万石の大大名となった。
その頃、江戸の徳川幕府は各地の大名に家系を提出させている。
「寛政重修諸家譜」によれば、
黒田氏は近江源氏の
佐々木氏から分かれた一族となっている。
宇多天皇の孫・
雅信が臣籍を離れて源姓を名乗る。
その孫の
源成頼は近江国佐々木に居を構え、
佐々木氏を称するようになった。
成頼が
近江源氏の祖であり、その七代目に当たる
佐々木信綱の時、
江南の
六角氏と江北の
京極氏に分かれる。
京極氏の祖となったのが
京極氏信で、
その孫の
宗清が近江の黒田村に移り住み、
黒田氏を名乗った。
それが黒田氏の始まりとされている。
早咲き遅咲き一度はきっとは咲くはずだ 森下よりこ
御師屋敷 御師
【御師】ー特定の寺社に所属して、神符や暦などを配り歩きながら、
その社寺へ参詣者を案内し、参拝・宿泊などの世話をする者のこと。
特に伊勢神宮の者は「おんし」と読んだ。
黒田家は官兵衛の祖父・重隆の代に姫路にやってきて、
広峯神社の御師の世話で家伝の目薬を売り、財を成したという。
しかし永正8年
(1511)、時の当主・
黒田高政が合戦の際、
先駆けの軍律違反を起こしたため、
近江に居づらくなり備前国の福岡村に移住する。
その子・
重隆は播磨国の
浦上氏が備前に勢力を伸ばしてきたため、
「戦乱を避けて放浪に出た」 と伝えられている。
そして、最終的に播磨の姫路に落ち着いたのである。
記憶から歳月毀す飯粒零す 岩根彰子
屋敷内部は非公開
重隆の子の
満隆は御着城を本拠とした
小寺氏に仕えた。
主君の
小寺政職は自らの名を一字与えて職隆と名乗らせたほど、
満隆を重用したのである。
さらに職隆には、重要な支城であった姫路城を任している。
その職隆の子として姫路城で生まれたのが
官兵衛であった。
この町で咲きこの町の土になる 笹倉良一
荘厳寺
西脇市黒田庄町にある荘厳寺。
門前の案内板にはこの土地が官兵衛の生誕地であると記されている。
以上が従来までの定説となっているが、
近年になって兵庫県にある
「荘厳寺」で、
発見された黒田家家系図には、またく違う系譜が記されていた。
それによれば播磨の黒田氏は、その祖が播磨の有力者、
赤松円心の弟である
円光となっている。
荘厳寺のすぐ近くにある黒田城を本拠地としていたが、
九代・
治隆の時に合戦に敗れ滅亡した。
軽口にちょっと流れた目玉焼き 合田瑠美子
しかし、治隆の弟・孝隆は、それよりも数年前に
小寺家の家老となっていたため難を逃れた。
それが黒田官兵衛だというのである。
荘厳寺に建てられている案内板には、
「近年はじめて判明した新事実」 と紹介されている。
黒田城跡がある山の麓には
、「黒田官兵衛生誕地」の碑もあった。
どの説が正しいのか?
黒田城を本拠とした一族こそが播磨・黒田氏なのか? どうか
戦国時代にのし上がって来た武将たちは、
ほとんどが正確な出自はわからない。
なかには槍ひと筋でのぼりつめてきたことを、誇る者すらいる。
黒田氏だけが特別ではない。
別宅に馬本宅に牛を置く 井上一筒
「黒田氏系図」
宇多天皇・・源雅信→佐々木信綱→京極氏信・・黒田宗清・・
高政→重隆→職隆(妻-明石正風)→官兵衛(妻-光)→長政[5回]
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