崖上の水仙崖の下のぼく 井上一筒
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「黒田家譜」
播磨は古来豊かな国だった。
律令制下背景となったのは、
「播磨」という国名の元にもなった「ハマ」=浜、
ふくとまり
すなわち播磨灘に面する魚住・福泊、室津の港と播磨平野である。
だが、その豊かさが仇になったか、争いの火種は常にくすぶっていた。
播磨・備前・美作の守護職だった
赤松氏の支配力は弱まり、
播磨から備前の守護代として赴任した浦上氏が、
備前の戦国大名として成長し、播磨においても、
三木の
別所氏と龍野の下野守
・赤松氏の両守護代が、独立性を高め、
さらに
明石氏などの有力な土豪たちがそれぞれ割拠している。
そして牽制しあいながら、微妙なバランスを保ち続けていたのである。
そのような勢力が割拠する播磨の地に
黒田官兵衛は生れたが、
元々、
黒田氏は近江国伊香郡黒田の出身で、
守護の
佐々木氏の一族に繋がる土豪だった、と
「黒田家譜」は伝える。
その先の夢へと伸びる豆の蔓 たむらあきこ
また
『黒田家譜』によると、実質的な黒田家の始祖は、
高政であったらしい。
よしたね
永正8年
(1511)の船岡山合戦で
足利義稙・細川高国と
ゆきなが
細川澄元・三好之長が戦うと、
高政は、義稙に従った。
しかし、軍令に背いたことを義稙に咎められ、
佐々木氏の仲介によって、ようやく罪は逃れたものの、
いづらくなった高政は牢人するはめになったという。
その後,高政が流れついたのが、備前国福岡(岡山県)という土地だった。
あくら
高政は親族の
加地氏・飽浦氏らが備前にいるのを頼ったとされている。
跨いでいくしかない凡庸なオトコ 山口ろっぱ
「身過ぎ世過ぎに何をしたものか」、と考えた高政は、
刀鍛冶が多く住むこの町には鉄の粉で目を痛めるものが多いことに気づき、
れいしゅこう
『玲珠膏』と名付けた
目薬の製造販売をはじめた。
家伝の薬とも、高政の考案とも伝わるが、
残念ながら彼は大永3年
(1523)再び世にでることなく死去してしまう。
その子の
重隆は、備前で浦上氏が赤松氏から実権を奪おうとする、
下克上の戦乱が起きると、難を避けて播磨飾東郡の姫路に移る。
ひろみね
姫路には広嶺山という丘陵があり、その頂きには広峯神社があるが、
重隆はこの神社に接近し、お札と
『玲珠膏』をセットにして、
お し
神社の御師に売り回らせて大当たりをとったという。
透明になるまで自転しています 合田瑠美子
ところで、官兵衛が姓とする
「黒田氏」は、いかなる所以をもつのだろう、
かんせいちょうしゅうしょかふ
黒田氏の出自に関しては、
『寛政重修緒家譜』や『黒田家譜』に記されている。
前の文を読む通り、黒田氏の歴史物語には殆ど、
「黒田家譜による」という言葉がついてくる。
いわゆる、軍師・黒田官兵衛の物語はこの家譜にそって進んでいく。
そこで、
「黒田家譜」がどういうものなのか見聞してみたいと思う。
始まりはリンゴと蛇と好奇心 板垣孝志
寛文11年(1671)、福岡藩三代藩主の
黒田光之は、
貝原益軒に「黒田家譜」の編纂を命じた。
高政まで遡れば、180年前の事実を調べることになる。
光之は倹約家として知られ、藩の緊縮財政を方針としていたが、
益軒を起用して、学問の興隆に務める一面があった。
以来、17年の歳月をかけて益軒は編纂に従事した。
完成したのは、元禄元年
(1688)その間の史料収集と執筆は、
想像を絶する難事業であったものとしのばれる。
※ 福岡藩主・黒田光之は官兵衛の曾孫に当たる。
苦労したことを語らぬ太い指 鈴木栄子
貝原益軒
貝原益軒は、名は篤信、字は子誠、通称は久兵衛といい、
江戸前期、儒者・博物学者・庶民教育家として知られる。
益軒の先祖は、岡山県吉備津神社の神宮であり、
祖父の代から黒田氏に仕えていた。
父は祐筆役を努め、益軒はその四男として福岡に生まれた。
壮年に至った益軒は、黒田藩に再就職すると、
藩費で京都に数年間にわたり留学し
松永尺五・木下順庵らの朱子学者や、
中村惕斎・向井元升らの博物学者と交わる。
また江戸時代初期の商業貨幣経済の進展や
上方の経験・実証不義の思想を実体験し、
後年それを発展させた人物でもある。
旅空のわたくしが産むちぎれ雲 徳山泰子
黒田家先祖の墓
「『黒田家譜』の史料的な価値、黒田家の先祖の曖昧」
「黒田家譜」の価値を貶める一つの要因となっている書物に、
佐々木氏郷という人の著作で
「江源武鑑」というのがある。
近江の戦国大名・
六角氏について日記形式で著された歴史書で、
全十八巻とかなりのボリュームのある書物なのだが、
作者の佐々木氏郷は、
沢田源内の偽名と考えられ、
源内は偽系図の作者としても知られている人物なのである。
そのため、この「江源武鑑」は内容にも誤りが多く、
現在では偽書という位置付けになっている。
とりわけ官兵衛の祖父・
重隆の項目では、
内容に問題が多い史料として知られている。
擂鉢の底で粘っている思案 荻野浩子
ところが、官兵衛以降になると、多くの文書を参照しており、
参考になる点も多々で、
「黒田家譜」でしか確認できない文書も掲載されている。
そんなことから、非常に貴重なものであるともみられている。
ただし、本文中に文書が引用されているからといって、
記述が正確であるとは言い切れない。
(益軒が近代歴史学の手法に基いて執筆したといえないからである)
また、作品の中で、官兵衛を全体的に顕彰する傾向が非常に強いのは、
黒田藩主・黒田光之の命で編纂されたものであるから、
止むを得ないところだろう。
これだけを見ても、益軒の苦労のほどが如実に伝わってくる。
紙芝居ほどのジャンルで生きている 武本 碧
さて、
「黒田家譜」に関して次のような論もある。
「歴史上の人物で有名な人なのだが、その人がどういう出身の人か、
「父母は誰か?」、
「どこの生れなのか?」、
詳しいことはほとんどわかっていない、というケースは多い。
ところが、黒田官兵衛の場合、そうした先祖や父母や出生地について、
明らかであると思われている。
ところが、それは一般化した
「通説」というばかりのことで、
本当のところをいえば、実はそうではない。
黒田官兵衛のケースは、史料がないのではなく、
『黒田家譜』のような「正史」が早々に作成されたために
、
かえって史実が覆い隠されるという結果になった」 というのである。
やみくもに過ぎるあの日のコトバ達 山本昌乃[4回]