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川柳的逍遥 人の世の一家言
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澄んでしまえば生きにくい白である  前中知栄


                    たいあん
      国宝二畳敷の茶室『待庵』

利休が考案した「にじり口」といわれる入口は、極限まで削りとった
間口は
狭いうえに低位置にあり、
いったん頭を下げて這うような形にならないと
中に入れない。

それは天下人となった秀吉も同じ。
しかも武士の魂である刀を外さねばつっかえてくぐれない。
つまり、一度茶室に入れば人間の身分に上下はなく、
茶室という小宇宙の中で「平等の存在」になるということなのだ。
このように、茶の湯に関しては、
秀吉といえども利休に従うしかなかった。


「世の中に茶飲む人は多けれど 茶の道を知らぬは茶にぞ飲まるる」
                            〔利休〕
カンナ屑私は何を削りとる  森田律子

小田原城を落とし天下統一がなった天正19年(1591年)

秀吉周辺には、いくつもの不幸が続いた。

1月、秀吉の弟で右腕と頼んでいた大和大納言・秀長が死去する。

前年、家康に嫁いだ妹・が聚楽第で亡くなっているから、

秀吉は、妹と弟を相次いで失ったことになる。

2月、北条家に出仕していた利休の高弟・山上宗二が、

秀吉に面会を許された折、無礼を働いたとして、打ち首になる。
           びとうとものぶ
7月、小田原では尾藤知宣が、島津攻め「根白坂の戦い」の失敗の、

反省もなく敵に塩を送ったかたちに秀吉が激怒、打ち首になる。

同7月、織田信雄の長女で秀吉の養女・小姫がわずか7歳で死去。

小姫は、徳川秀忠と結婚することになっていた。

8月、秀吉の愛してやまない「鶴松」が、わずか3歳で亡くなる。

秀吉の嘆きはあまりに深く、東福寺に入って髷を切ったという。

蝙蝠はなんで頭にこないのか  武智三成        


 南宗寺内・利休茶室

「茶人・千利休」

千利休は、堺で納屋衆(倉庫業)を営む商家に生まれる。
                      ととや
商家の屋号は、なぜかユニークに魚屋という。
                      げっしん
父は、田中与兵衛、母の法名は、月岑妙珎、

妹は、、茶道・久田流へと続く宗円
                           きたむきどうちん
若いころから、茶の湯に親しみ、17歳で北向道陳
     たけのじょうおう
ついで、武野 紹鴎に師事し、師とともに茶の湯の改革に取り組んだ。

その流れから、織田信長が堺を直轄地としたときに、茶頭として雇われ、

のち秀吉に仕えた。

よろこびをつつんで生きている人だ  居谷真理子           


  利休の手水鉢

利休という名は晩年、天正13年(1585)10月の、

秀吉の禁中茶会で、正親町天皇から賜った居士号であり、

それまでは「千宗易」という法名を名乗った。

利休は、わび茶の完成者で、「茶聖」と称される。

わび茶は、無駄ともいえる装飾性を省き、

”禁欲的で緊張感”のある茶である。

その世界を追求するため、利休は草案と呼ばれる二畳の茶室」

創出し、また楽茶碗、万代屋釜、竹の花入れなどの

「利休道具」を考案し、露地の造営にもこだわり、

茶の湯を、「一期一会の芸術」にまで高めたのである。

理想論でうごくこの世であるならば  たむらあきこ

一時期、利休は聚楽城内に屋敷を構え、聚楽第の築庭にも関わり、

禄も三千石を賜わるなど、茶人として名声と権威を誇った。

天正15年(1587)「北野大茶会」を主管し、

一時は、秀吉の重い信任を受けていた。

が、天正18年(1590)、秀吉の弟・秀長が死去した辺りから、

秀吉と利休の関係がおかしくなってくる。

秀吉と大名たちの、つなぎ役でもあった秀長がいなくなったことは、

豊臣政権にとっても利休にとっても打撃だった。

螺旋の底で水の澄むのを待っている  森 廣子


   利休庵の茶釜

その矢先の2月、秀吉が小田原で北条氏を攻略した際に、

利休の愛弟子・山上宗二が、秀吉への口の利き方が悪いとされ、

その日のうちに処刑される事件があった。

利休は大きな衝撃を受けた。

茶の湯に関しても、秀吉が愛したド派手な「黄金の茶室」は、

利休が理想とする「木と土の素朴な草庵」と正反対のもの。

秀吉は自分なりに茶に一家言を持っているだけに、

利休との思想的対立が日を追って激しくなっていく。

添うた背いた花筏の蛇行  岩根彰子

だが実は、官兵衛と同様、何かと秀吉に諌言する利休の不遜な態度を、

最も苦々しく思っていたのは、秀吉の忠実な側近・三成だった。

秀吉があまりにも、利休を重用することで、

誰もが利休を頼るようになり、

また利休もそれを利用して、出世していくことに、

懸念を示していたのだ。

そんなことから、同年2月13日、石三成の讒言により、

利休は、大坂城から堺へと追放が決まった。

利休は頑なに謝罪を拒否し、秀吉も引くに引けなくなり・・・。

あしたという字は暗い日と書くのね  喜多川やとみ

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