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大坂城
「大坂城」
大坂城の起源は明応5年
(1496)に
蓮如が別院を設けたのに始まる。
天文元年
(1532)、山科本願寺が焼き討ちされると、
証如によって
「本願寺」が大阪の地に移された。
別名「石山城」と称されるほど堅固なものであった。
のちに、本願寺は
織田信長と対立するが、
天正8年
(1580)に和議が結ばれ本願寺は退去した。
本能寺の変後、
秀吉は大坂の経済上・地理上の重要性に着目して、
大坂城の築城を決意するのである。
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大坂城は、秀吉が天下を治めるために築いた最初の城だが、
工事が開始されたのは、天正11年
(1583)8月ころ。
秀吉は各国から職人や人夫を動員して大工事を敢行した。
各国から人員を集めることは、秀吉の権力を誇示する狙いもある。
もちろん、官兵衛も大坂城の工事に動員された。
官兵衛が居城として建設したのは、中津と福岡だけだが、
すでに中国攻めの頃から、自らの居城である姫路城を秀吉に譲り、
これを織田軍中国方面司令官の居城に
「ふさわしいもの」とすることに貢献している。
そこで官兵衛は、縄張りにおける類なき才能を買われたのである。
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天下人となった秀吉のために官兵衛は、今までにも、
大坂・聚楽第・高松・広島・名護屋などの各城の普請に、
なにがしかの立場で参加し助言を与えてきた。
大坂城築城にあたっては、
官兵衛は城普請の監督という積極的な地位を任されていた。
何しろ巨大な城郭であるので、
持ち場によって複数の監督が置かれたのだ。
秀吉の古くからの家臣・
前野長泰もそのひとりであった。
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大坂城石垣 羽柴秀吉大坂築城持掟書
持掟書の末尾には官兵衛のサインがある。
秀吉がこの二人に対して5つの掟を定めた。
「普請石持付而掟」という。
① 石の採取は自由であるが、奉行があらかじめ取り置いた石は取らぬ事。
② 宿をあっちこっちに取ると石の採取場まで遠いので、石場に野宿する事。
③ 石を運搬する際、片側通行にする事。
④ 喧嘩口論は禁止する。(訴えがあれば、喧嘩をふっかけた者を罰する)
⑤ 百姓に対して乱暴狼藉を働く輩は処罰すうる。
これらの条項からみて、大坂城の工事では不特定多数の職人や人夫が
一気に押し寄せる混乱排除のため、
一定の秩序を保つ必要があったようだ。
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築城が開始されると、まもなく官兵衛の姿は見えなくなる。
官兵衛の役割は、普請の初期の段階において、
筋道をつけるところ、いわゆる設計に携わっただけで、
軍師として秀吉に呼び戻されたのであった。
話がいったり来たりするが、官兵衛は、
備中・高松城の水攻めの際に足守川から蛙ヶ鼻まで、
高さ7メートル、3キロメートルに及ぶ堤防の築造をみても
分かるように、土木技術にも精通していた。
その知恵は大坂の地でも発揮される。
上町の北端に築かれた大坂城は、
「南側に空堀を掘って」防備を固め、
また淀川とその支流が
「天然の堀」の機能を果たすとともに、
城内の堀へと、水を引き込むのに利用している。
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大坂城周辺図
難攻不落といわれる大坂城は、三木城ならびに鳥取城の兵糧攻め、
水攻めなどによって落城させた備中・高松城など。
数々の城を知り尽くした官兵衛だからこそ、
成し得た城及び町造りであった。
現在、我々が何気なく走り回っている大坂城周辺は、
城下町を一体として設計された、官兵衛の知恵そのものなのだ。
余談だが黒田家譜に、
「大坂城普請がはじまると、秀吉から長政に対して、
河内国丹北郡住持村に初めての知行地が与えられた」
と記されている。
これは大坂城普請に際しての、
造作料や馬の飼育料に充てるものであった。
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「最後に」
秀吉の大坂城は、本丸の築造に約1年半を費やし、
その後も秀吉が存命した15年の全期間をかけて、
徐々に難攻不落の巨城に仕上げられた。
また、城づくりと同時に町づくりが行われ、
秀吉時代の大坂は、近世城下町の先駆けとなった。
領主の邸宅である城を中心とした広大な領国の首都、そして、
政治・経済・軍事・文化の中心都市として、
「城下町大坂」が建設されたのである。
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