カマ首をときどき起こし風を聴く 森中惠美子
橋立の茶壺
利休が持つ数々の茶道具の中で最も愛したのがこの橋立の茶壺である。
それを知った茶好きの秀吉は、自分の立場を利用して利休に、
「それをよこせ」と強引に望んできた。
しかし利休は秀吉がいくら望んでも、この橋立の茶壺を手離さなかった。
これを渡さなかったことが、秀吉の勘気を買い利休切腹の一因に、
なったとも言われている。
「利休が秀吉に死刑を命じられる原因を探る」
天正18年
(1590)秀吉が小田原で
北条氏を攻略した際に、
利休の愛弟子・
山上宗二が秀吉への口の利き方が悪いとされ、
即日処刑された。
奈良の茶人・
久保利世が自叙伝の中で、
「茶説・茶話」を収録した原文に、
『小田原御陣の時、秀吉公にさへ、御耳にあたる事申て、
その罪に耳鼻をそがせ給ひし』 とある。
この事件から、秀吉と利休の間に、「思想的対立」がはじまる。
もう二度と熱くなれない君と僕 松山和代
利休は、最晩年の天正18年
(1590)から、
天正19年にかけて、
『利休百会記』として、
その記録が伝わる、およそ
「百会の茶会」を開いた。
徳川家康や
毛利輝元らの大名衆、堺や博多の豪商、
大徳寺の禅僧など、多様な人々が出席した。
また、この茶会記には、
利休七種にもあげられる
「赤楽茶碗・木守」や、
利休愛用の
「橋立の茶壷」などの道具を用いた。
有り様もあらざるモノも現世 山口ろっぱ
利休の愛した瀬戸黒茶碗 黒楽茶碗
そして、1月13日、黄金の茶碗を所望した秀吉に、
「わび茶は無駄ともいえる装飾性を省き、
禁欲的で緊張感のある茶である」
と主張する利休は、あえて
『黒茶碗』を出した。
これが、秀吉の勘気に触れた。
黄金の茶室と利休についても、
「利休の美意識と黄金の茶室の趣向は相反するもの」
であった。
そこにいるあなたの声が聞こえない 河村啓子
羽柴秀長
そして10日後の22日、秀吉の弟・
秀長が病没。
秀長は、諸大名に対し、
「内々のことは利休が」、
「公のことは秀長が承る」
と公言するほど、利休を重用していた人徳者である。
秀長は秀吉のそばにあって、唯一利休の理解者で後ろ盾であった
それから、1ヵ月後の2月23日、
突然、秀吉から、
「京都を出て堺で自宅謹慎せよ」
と利休に命令が届く。
止められぬ時の流れがごうごうと 岡田幸男
大徳寺山門
千利休は、山門の閣を増築し二層とし、自らの像を安置する。
秀吉はこれに怒り、寺を破却しようとしたが、宗陳に止められる。
2月25日には、利休の木像が聚楽大橋に晒され、
翌26日、上洛を命じられる。
前田利家や、利休七哲の
古田織部、細川忠興ら、
大名である弟子たちは、
大政所や北政所が密使を遣わし、
命乞いをするから、秀吉に詫びるようすすめた。 が、
「天下ニ名をあらハし候、我等ガ、命おしきとて、
御女中方ヲ頼候てハ、無念に候」
と断った。
『千利休由緒書』に残る利休が利家に答えた言葉」
遺言と書いて江戸小噺を一つ 筒井祥文
そして、2月28日、
よしや
利休の屋敷がある京都葭屋町を訪れた秀吉の使者が伝えた伝言は、
「切腹せよ」
この使者は、利休の首を持って帰るのが任務だった。
利休は静かに口を開く
「茶室にて茶の支度が出来ております」
使者に最後の茶をたてた後、
利休は一呼吸ついて切腹した。 享年70歳。
利休は天下人の気紛れにも似た、理不尽な命を、
粛々と受け入れることで、信長や秀吉の上に立ったのである。
血液はサラサラですが生き下手で 山本昌乃
利休の茶室
利休の死から7年後、秀吉も病床に就き他界する。
晩年の秀吉は、短気が起こした利休への仕打ちを後悔し、
利休と同じ作法で食事をとったり、
利休が好む
「枯れた茶室」を建てさせたという。
「利休が死の前日に詠ったとされる辞世の句」
じんせいしちじゅう りきいきとつ
【
人生七十 力囲希咄
わがこのほうけん そぶつともにころす
吾這寶剣 祖佛共殺
ひっさぐる わがえぐそくの ひとたち
堤る 我得具足の 一太刀
いまこのときぞ てんになげうつ
今此時ぞ 天に抛 】
転がってみたいと思うまっ四角 合田瑠美子[2回]
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