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川柳的逍遥 人の世の一家言
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救命具ないのに沖が呼びにくる  清水すみれ


『太平記英勇傳・岩成主税助左道』-三好三人衆

「小寺政職陥落」

東からの信長の勢力が日の出の勢いで押し寄せ、

西からは毛利氏が台頭してきた播磨国は、

両勢力の緩衝地帯となっていた。

しかし信長が石山本願寺との抗争で播磨への進攻が、

足踏み状態だったため、毛利氏の調略の手が伸びていき、

播磨の小領主たちは、どちらに就くか右往左往していた。

空へ向けた人差し指を回す神  山田ゆみ葉

右往左往イコール即領土は乱れ、下克上ありき侵略ありきで、

播磨は赤松氏、小寺氏、明石氏、櫛橋氏、別所氏などの勢力が乱立。

それぞれ独自の動きをとるようになる。

その中に小国大名のさまざまな生き様が見えてくる。

秀吉と意地で戦った光の兄・櫛橋伊定、光の姉の夫・上月景貞

当初織田方についていたが、時の流れを読み違えた別所長治

毛利につくか織田か、狡猾に生き延びた備前・美作・宇喜多直家

代役ながら武士の本懐を全うした吉川経家

そして単純明快で優柔不断な御着城の小寺政職。 などなど。

広がってゆくほころびをさてどうします  山本昌乃



「小寺政職の場合」

天文14年(1545)小寺則職より家督を引き継ぎ、

御着城城主となった政職は、播磨国内での勢力を着実に拡大していく。

官兵衛職隆のらの優秀な人材を得て、

置塩城の赤松氏の勢力を後退させるなど、

自立した大名としての途を邁進していくのである。

そして、東播磨の別所氏と並ぶ西播磨の戦国大名に成長を果たす。

盆栽が枝葉広げる夢を見る  片山かずお

やがて、東から織田、西から毛利の勢力が伸びてくると、

官兵衛の助言に従って一旦は織田方に付いた。

その後、毛利氏の浦兵部宗勝が率いる毛利軍五千を千の兵で撃退し、

信長から感状を与えられる。

にもかかわらず、三木城の別所長治の寝返り、

有岡城の荒木村重の反乱、などを目の当たりにすると、

気の弱い、優柔不断な政職の心は揺れ、

信長も官兵衛をも裏切る決断をする。

クレヨンぽきぽき泣ける力はどのあたり  菊池 京



政職の唯一の戦さ碁石将棋

天正7年(1579)11月、城主・荒木村重が不在となった有岡城は、

城兵が織田軍の調略に応じ、落城。

天正8年に三木城が、落城し、御着城も同年に、落城。

政職は英賀を経て毛利氏の備後国・鞆の浦のもとへ落ち延びる。

その鞆の浦への流浪中、信長にひたすら謝罪を繰り返したが、

信長は政職の裏切りを許さなかった。

政職はそのまま備後の鞆に住み、天正12年5月にその地で没した。

政職には嫡子・小寺氏職の他に、女子数人の子供が居たが、

政職の死により、大名としての小寺家は滅亡。

逃げ道のタンポポまでも踏みつける  河村啓子


  官兵衛
           うじもと     いつき
政職の嫡男・小寺氏職幼名・斎)も父に付いて毛利領に落ち延びた。

政職が備後の鞆で死没後、官兵衛は氏職を不憫に思い、

「小寺政職は不義によって流浪し、死んで小寺家は滅びました。

息子の氏職を引き取り養育したいので、氏職の罪は恩赦して欲しい」

官兵衛の希望を聞いた秀吉は、

かって官兵衛を裏切り、幽閉へと追い込んだ張本人をまないばかりか、

昔の恩を忘れない志に感心し、その願いを聞き入れた。

人々もまた「命の危機にさらされたにも拘らず、

旧悪を忘れ、なんと情の深いことか。

恩をもって仇を報ずとは、このことである」と関心した。

馬の涙も馬の笑顔も知る男  福尾圭司

まもなく官兵衛は養育のため筑前国に屋敷を氏職に与えている。

その後、氏職は「有庵」と称して黒田家の客分となり、

子孫は福岡藩士となって存続した。

「竹中半兵衛の遺言」戦国武将への警告。

【武士は名こそ惜しけれ、義のためには命も惜しむべきはない。

 財宝など塵あくたとも思わぬ覚悟が常にあるべきである】

白というその一点の毅然かな  徳山泰子

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