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川柳的逍遥 人の世の一家言
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体内を流れる水母のようなもの  笠嶋恵美子



 秀吉三木城包囲図

「黒田の姓」

官兵衛の父、職隆はもともと黒田の姓をつかっていたが、

小寺氏の配下に組み込まれることにより、小寺姓を与えられて以後、

官兵衛も小寺姓を名乗っていた。

では官兵衛は、いつのころから黒田の姓に戻したのだろうか。

白鯨の腹に抜糸の疵がある  くんじろう



    御着城絵図

天正8年1月、秀吉が三木城主の別所氏を滅ぼすと、
         しそう
続く4月には宍粟郡の長水城主・宇野氏を滅亡に追い込んだ。

両氏を滅亡させたことにより、播磨の平定は完了した。

同年4月になると、破城が進められ、

小寺氏の居城である御着城以下、主要な城郭は破壊された。

御着城主、小寺政職は逃亡し、

子孫はのちに福岡藩主となった黒田長政に仕えたという。

これ以前から官兵衛は秀吉に従っていたので、

もはや、小寺氏とは関係ない。

ポリ袋にシーラカンスのエラのカス  山口ろっぱ



秀吉は禁制や百姓還住を進め都市、町、村の戦後復興を推し進めた。

その中で重要視されたのが姫路であった。

同年7月には、秀吉は官兵衛に対して、

姫路城の普請を申し付けている。

この時の宛名が「黒官兵」となっているので、

少なくとも、この時点で黒田姓に戻していたと考えられる。

以後、官兵衛が小寺姓を使った形跡はない。

つまり、

官兵衛は有岡城を脱出し、

小寺氏が没落してから、黒田姓に復したのである。

弁天さんの前で駱駝がロバになる  奥山晴生



「名の変遷」

官兵衛の名前は、孝高である。

しかし史料によっては違った名前が用いられている。

永禄10年(1567)12月13日付の正明寺文書に残る

「黒田孝高下地売券」には、姓と官職が「小寺官兵へ衛」とあり、

名は「祐隆」と記されている。

官兵衛の初名は、一般的には「孝高」と考えられているが、

「祐隆」である可能性がある。

同じく正明寺文書の中の「黒田黒田孝高借銭請取状」では、

姓と官職が「小官」とあり、名は「考隆」と記されている。

                 (永禄13年3月12日付)

次に4宮文書の中の「黒田孝高起請文」には、

姓と官職が「小寺官兵衛」、名は「孝隆」とあり、

いずれにしても「孝高」ではない。

                   (元亀3年9月13日付)

ところで黒田氏は、重隆、職隆のように、下に「隆」がつく。

ゆえに本来は「祐隆」「考隆」「孝隆」と名乗るのが自然なのだが、

敢えて「隆」を使わなかったのは、

どんな意味意識があったのだろうかー興味が尽きないところである。

漂流中もエビチリは食べていた  井上一筒

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