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川柳的逍遥 人の世の一家言
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寝転んで空を見ているだけの旅  田村ひろ子  



         半兵衛の墓

三木城攻防戦では、秀吉は三木盆地を一望できる平井山に

本陣を設けて、「兵糧攻め」という長期戦を展開し、

初めての茶会も開催した。

戦いが佳境に入ったころ、以前から胸を病んでいた竹中半兵衛は、

秀吉のすすめで京都に移って療養する。

しかし、はかばかしく進展しない戦況を案じて戦場へ戻り、

戦いのさなかに平井山の陣中で病死する。

官兵衛が幽閉の地下牢から救出されるわずか5ヶ月前のことである。

現在、秀吉の本陣があった平井山の山頂には。

「三木合戦 羽柴秀吉 平井本陣跡」の説明板があり、

その南西側の山麓のブドウ畑のなかに白い練り塀に囲まれて、

「半兵衛の墓」がある。

影踏みは終わらせようか友の墓  くんじろう

「官兵衛療養」

有岡城の劣悪な地下牢に一年以上も押し込められ、

半死半生で救出された官兵衛は、髪は抜け落ち、皮膚は干からび、

足腰はこわばったままという変わり果てた姿になっていた。

満身創痍となった官兵衛は「有馬温泉」でその傷を癒した。

そこで、秀吉と半兵衛の命がけの計らいで、

息子の松寿丸が無事であることを知る。

しかしその恩人の半兵衛は、

有岡城が落城する半年ほど前に世をさっていた。

 美しい会釈ですっと席を立つ  山本昌乃

官兵衛は半兵衛に深く感謝し、その死を悼みながら、

「この世には裏切る人間がいる。一方、信じられる人間もいる」

ことを確信し、

「自分は人を裏切ることはすまい」

という思いを新たにした。

その後、官兵衛は姫路城へ帰り、一族と数日過ごした後、

湯治の効果で体力は回復したが、後遺症の残る片足を引き摺りつつ、

秀吉の元へ向った。

一八〇度の転身をして返り咲く  清水久美子

そこで秀吉は、

「命を省みず、敵の城に乗り込むことは、誠に忠義の到りである。

   獄中の生活は苦しかっただろうが、

   こうして再会できた事は嬉しい限りである」

と涙を流して喜んだ。

そのまま官兵衛は秀吉の参謀役に復帰する。

一方、官兵衛の詳細を聞き知った信長は、

「人質の松寿丸を処刑したことは後悔の至りだ。

   官兵衛に合わせる顔が無い」

と後悔した。

しかし、半兵衛の機転で、松寿丸の存命のことを聞くと

珍しく信長は半兵衛に感謝し、安堵の顔をみせたという。

満面の笑顔よかったなと思う  河村啓子



  有馬温泉ーねねの橋    太閤の湯船の遺構

「有馬温泉の歴史」
                       おおなむちのみこと すくなひこなのみこと
有馬温泉の歴史は古く、神代の昔、大己貴命少彦名命の二神が、

三羽の傷ついた烏が、湧き出した泉で傷を癒しているのを見つけて、

温泉を発見したのが始まりだといわれる。
          じょめい
【日本書紀】舒明天皇「631年に孝徳天皇が647年に御幸した」

との記述があることから、日本最古の温泉といわれている。

また有馬温泉が世に広く知られるようになったのは、

奈良時代に行基菩薩が温泉寺を建立し、

また鎌倉時代には、仁西上人が十二の宿坊を建ててからといわれる。



さらに秀吉が、湯治のためにたびたび有馬を訪れ、

戦さの傷を癒すと同時に、

戦乱や大火で衰退した有馬の改修を行い、湯山御殿を建てた。

江戸時代になってからは、その効能の評判により、

全国から多くの人々が訪れるようになる。

白浜温泉、道後温泉と並ぶ、日本三古泉のひとつに数えられる

湯山御殿=太閤の湯殿館に湯船の遺構が現存する。

的外し人間らしさ取り戻す  合田瑠美子

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